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旧奥行臼駅逓所

住所 野付郡別海町奥行15番地12
公開期間 4月末〜11月初旬まで
公開時間 10時〜16時30分
休館日 月曜日(祝日の場合は開館)、11月初旬〜4月末
入館料 無料
駐車場 建物前の通路に2台程度

別海町観光協会

野付の由来は、アイヌ語の「ノッケウ」(あご)から。昔ここへ大きな鯨が流れ寄り、その下顎がこの埼(さき)になったという説と砂嘴の形状から名づけられたという説がある。
別海の由来は、アイヌ語の「ベッ・カイェ」(川の折れ曲がっているところ)から。元禄年間には「べけるる」、安政年間には、「ヘッカイ」と呼ばれ、1872(明治5)年に別海となった。
奥行の由来は、以前は奥行臼と言い、アイヌ語の「ウコイキ・ウス(ウシ)」(戦があったところ)の意。「争闘セシ処 根室ポロモシリ村のアイヌ厚岸アイヌと戦ヒシ処ナリト言フ」とあり、この地で根室ポロモシリのアイヌと、厚岸のアイヌが戦をしたそうだ。かつては漢字をあてて奥行臼としていたが、臼が省略され現在に至る。
国道244号線国道243号線の交差点から別海方向に約230m進み左折、道道930号上風連奥行線に入り100mほど右手。

奥行臼駅逓(おくゆきうすえきてい)は、1910(明治43)年9月奥行臼に初めて入植した山崎藤次郎が取扱人として開設。別当賀にも駅逓所設置。奥行臼〜別当賀間は約21kmほどあった。1870(明治3)年10月別海駅逓(本別海)を藤野により取扱われ、別海〜奥行臼館は約14kmほどの距離だった。
旅人に宿泊・人馬継立・郵便業務を担うための施設として供され、現存している数少ない駅逓である。別海・別当賀・西別へ向かう人たちに利用され、交通拠点として賑わった。また別海町にあった9つの駅逓のうち、現存している唯一のものだ。
1877(明治10)年遠太北岸(とおぶと、現走古丹、風蓮湖湖口に近い根室側砂嘴先端近くの内湾側だろうが浸食により分からなくなっている)渡船場を設ける。それ以前はアツウシベツ(厚別)を経由していたが遠回りでぬかるんで歩きにくかったようである。1884(明治17)年5月遠太に駅逓を設置する。1894(明治27)年11月遠太南岸に渡船場開通する。遠太の渡しが危険な時は別当賀経由で迂回路として利用していた。1910(明治43)年9月開設された駅逓業務は当所、駅逓間の人足・馬匹による継立とと旅客の宿泊や休憩所として担っていた。
 1917(大正6)年4月西別駅逓所(別海市街地)と厚床駅逓所を開設する。1923(大正12)年には上風蓮駅逓所(別海上風蓮)がそれぞれ設置される。奥行臼が交通の要衝として栄えていく。1924(大正13)年10月中春別に駅逓所設置される。厚床〜西別間に殖民軌道敷設され、西別駅が開設。これにより内陸部への入植が進み、奥行臼駅逓所の役割も薄れていくのである。
 1930(昭和5)年6月奥行臼駅逓と別当賀駅逓を廃止、山崎氏は廃止後「山ト山崎旅館」として営業を続ける。1933(昭和8)年12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。1934(昭和9)年10月標津線の西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。1937(昭和12)年奥行臼駅逓附属物件が山崎氏に無償貸与される。1963(昭和38)年12月別海村村営簡易軌道風蓮線(奥行臼〜上風蓮間)が開通する。1970(昭和45)年まで経営を続けていたが駅逓時代よりも繁盛していたという。その後は商店兼自宅として利用された。1971(昭和46)年3月別海村村営簡易軌道風蓮線(奥行臼〜上風蓮間)が廃止となる。
その後建物を町へ寄贈、当時の建築様式をそのまま留めた建物は、1982(昭和57)年11月別海町指定文化財となり、1985(昭和60)年5月から一般公開される。
1989(平成元)年4月標津線全線廃止しバス転換となる。奥行臼駅も廃駅となる。1994(平成6)年には北海道指定有形文化財に指定され、2011(平成23)年9月「旧奥行臼駅逓所」の名称で国の史跡に指定された。指定面積は61.496平方メートル。2016(平成28)年保存・修繕作業に伴い、一時閉鎖。2018(平成30)年10月「旧奥行臼駅逓所」が修繕を終える。2019(平成31・令和元)年5月より一般公開される。
建物の構造と形式は、木造一部二階建て、半切妻造り、切妻造り及び寄棟造り。床面積1階は284.24平方メートル。2階は162.50平方メートル。南棟、中央棟、北棟からなる。北棟は1920(大正9)年建築。既存の建物を大きく改造して建築されたのが中央棟と南棟で1941(昭和16)年に建築される。北棟に関しては内部を駅逓時代の姿に復元し、中央棟、南棟はそのまま修復されている。

動画では2階部分がなぜかピンボケだったのがとても残念でした><。雰囲気だけ・・・・。

以前訪問した際は館内を見ることが出来なかったため2019(平成31・令和元)年7月再訪してきた。
ちなみに近くには旧奥行臼駅別海村営軌道奥行臼停留所がある。


案内板
国指定史跡
旧奥行臼駅逓所
指定年月日 平成二十三年九月二十一日
 駅逓所とは、交通不便の地に駅舎と人馬等を備えて、人
馬の継ぎ立てと宿泊、物資の逓送等に便宜を図るために設
置された施設で、明治期以降北海道では独自の制度として
存続し、北海道の開拓と連動して発展を遂げました。
 旧奥行臼駅逓所は、明治四十三年(一九一〇)年に別海村
奥行臼に設置され、根室と別海の海岸部・内陸部をそれぞ
れ結ぶ交通の要衝として重要な役割を果たしました。
 開設当時の駅舎は駅逓取扱人山崎藤次郎の自宅が使われ
ましたが、明治末から大正初期の増築を経て、大正九(一
九二〇)年には客室として二階建ての寄棟が増築されてい
ます。この寄棟は現在でもほぼ変わ
らぬ形で現存しており、駅逓全盛期
の姿を現代に伝えています。
 奥行臼駅逓所は昭和五(一九三
〇)年に廃止されましたが、引き続
き旅館として使われ、駅逓時代より
も賑わいを見せたと伝えられてい
ます。また、駅逓所時代に使われて
いた調度品類、厩舎や広大な放牧地、
さらに道路跡も残っており、駅逓所
当時の景観が良好な状態で保存さ
れています。
平成二十三年十月六日
別海町教育委員会

奥行は、元は別海町大字厚別村の一部だった。別海は、江戸期から見られる地名で、元禄年間には「べけるる」「ベツカエ」と書かれている。江戸期のベツカエは西別川河口部左岸を指すようである。1822(文政5)年のベツカエのアイヌは16軒、82人。松浦武四郎が著した「廻浦日記」には「ヘツカエ、番屋立継通行屋有。ノツケへは此処より船を出す也・・・此処御献上鮭塩切場、板蔵七棟、雑蔵四棟、稲荷社、御制札等有。此処もむかしは三十軒余有。当時十六軒、人別七拾三人有と聞り。当所の惣乙名シタタキ儀は子モロ領分中の惣乙名にて、万事此者より出る也」とある。1859(安政6)年11月別海は、西別川を境に南を仙台藩、北を会津藩領地とする。和人の渡辺多七郎は、藤野漁場の監督者として慶応年間から定住を始め、別海の定住の草分け的存在である。
 1869(明治2)年根室国野付郡に属する。別海町史によると、「明治初年ノ頃藤野四郎兵衛カ鮭漁業経営ノ為メ青森県岩手県ヨリ漁夫数十人ヲ募集シ来リ漁撈ニ従事シタルヲ動機トシテ後、明治七年柳田藤吉ナルモノ鮭鱒角網従事ノ為メ漁夫百数十人ヲ募集シ来リ漁撈スルニ至リシモ、是等多クハ年期稼スルモノニシテ春季渡来シテ終秋帰郷スルヲ例トシテ」などと記述されている。こうした季節労働者の定着は、本別海を中心として1871(明治4)年頃にはアイヌを含めた村落が形成されていったようである。これには1870(明治3)年10月別海駅逓を藤野により取扱われる。西別出張所が焼失し、別海に移転新築し別海役所と称した。当時の西別村は藤野四郎兵衛や柳田藤吉らによって有能な漁場として繁栄するも、隣接する別海村が村落として充実していたこともあり番屋のみで定住者はほとんど増加しなかったようである。1872(明治5)年3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。本別海の部落形成が始まる。1873(明治6)年病院ができる。1875(明治8)年5月村名は全て本字使用となり「別海村」と表記する。1876(明治9)年1月別海に郵便局を設置する。9月走古譚村が発足する。1878(明治11)年7月別海に官設缶詰所落成する。1879(明治12)年7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。1882(明治15)年2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。小学校が開校する。1886(明治19)年野付郡が根室支庁の管轄となる。西別村ヤマカシムイで佐々木忠太郎農耕始める。12月野付郡は根室外九郡役所の管轄下となる。この頃の和人の定住者は30人程度。この頃から奥行に製炭が目的で移住者がでてくる。1891(明治24)年別海の戸数は51戸、人口は376人。明治30年代には牧場経営をするものが出てくる。1906(明治39)年12月和田村管轄の厚別村を編入し別海外5ヶ村戸長役場と改める。1907(明治40)年に簡易教育所を設置する。1910(明治43)年9月奥行臼に駅逓所を設置する。この年の奥行では牛240頭、馬780頭に達する飼育数となる。当時の奥行戸数は17戸、76人。牧畜と製炭が主産業だった。
 1923(大正12)年1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。成立時の戸数は602戸、人口2426人。この頃から西別市街が区画され、牛馬の生産が始まる。1924(大正13)年厚床〜西別間に殖民軌道敷設される。
 1927(昭和2)年〜1931(昭和6)年にかけて第二期拓殖計画に基づき1918戸が入植する。しかし冷害が続いたこともあり酪農・畜産業へ転換する。1930(昭和5)年。6月奥行臼駅逓廃止。1933(昭和8)年12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。簡易教育所が一旦閉鎖するが大和特別教授所として再開する。1934(昭和9)年10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転し、村の中心部は内陸に移る。標津線の西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。1937(昭和12)年大和小学校と改称する。1940(昭和15)年には北海道製酪販売組合連合会(後の雪印乳業)の工場が建設される。1945(昭和20)年日本がポツダム宣言を受諾し、終戦。その後ソ連軍が北方四島を不法占拠する。引揚者454戸3302人が開拓移民として入植する。1947(昭和22)年5月地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。この頃大和小学校に中学校を併置する。1953(昭和28)年12月中標津・別海が町村境界を決める。野付半島に灯台が設置される。1955(昭和30)年4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。パイロットファーム事業を開始する。1965(昭和40)年全道一の乳牛多頭飼育優良村として表彰を受ける。1966(昭和41)年中学校が西別中学校(別海中央中学校)に統合となる。1971(昭和46)年4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。簡易軌道が道路網の発達と自動車の普及により廃止となる。1972(昭和47)年1月区画整理による新字名番地が施行される。1976(昭和51)年12月西別駅を別海駅に改称し、駅舎を新築する。


1593(文禄2)年、蠣崎慶広、豊富秀吉に謁見し封彊禁制の朱印の書を得て蝦夷の島主と認められる。
1599(慶長4)年、慶広、蠣崎氏を松前氏に改め徳川家康に謁見する。
1604(慶長9)年、慶広、徳川家康に謁見し黒印の制書を得て、さらに強力な統治権を握る。
1624〜1643(寛永年間)年、松前藩が厚岸場所を開設し、運上屋を設ける。
1644(正保元)年、幕府が松前藩の領地図を基に、北方領土を含む「正保御国絵図」を作成。
1701(元禄14)年、厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1754(宝暦4)年、和船が初めて納沙布水道をの難所を越え国後場所を開設する。
1774(安永3)年、霧多布外3場所を飛騨屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害する。
1785(天明5)年、最上徳内、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村山伝兵衛に場所請負を命ず。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが西別に上陸し、根室湾に越冬する。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は根室、国後場所を罷免される。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛、国後・択捉島間に航路を開く。幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明東蝦夷地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る。幕府道路を開削し、野付と厚別に通行屋できる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。7月江戸よりの探検船凌風丸忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。
1810(文化7)年、高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811(文化8)年、6月露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送する。
1812(文化9)年、根室場所を材木屋七郎右エ門の請負となる。国後場所は米屋藤兵衛が請け負う。野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留される。
1815(文化12)年、高田屋金兵衛場所請負となる。
1816(文化13)年、根室場所を高田屋喜兵衛、伊達林右エ門、栖原半助、亀屋武兵衛の共同請負となる。
1818(文政元)年、根室場所を高田屋単独の請負となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。
1831(天保2)年、高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。
1839(天保10)年、山田文右衛門場所請負となる。
1843(天保14)年、3月根室国地方に大津波あり。
1845(弘化2)年、白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。
1849(嘉永2)年、根室場所藤野喜兵衛の請負となる。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1857(安政4)年、加賀伝蔵が野付半島オンネニクルにて畑作をする。
1859(安政6)年、11月別海は、西別川を境に南を仙台藩、北を会津藩領地とする。
1865(慶応元)年、山田屋寿兵衛漁場請負となる。
1869(明治2)年、8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し漁場持と改称。10月根室開拓使に出張所を設け、根室、野付、花咲三郡を所轄。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。
1870(明治3)年、1月野付村に44人団体移住する。10月別海駅逓を藤野により取扱われる。
1871(明治4)年、諸藩分領が廃止され、開拓使に帰属される。
1872(明治5)年、3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。本別海の部落形成が始まる。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1875(明治8)年、樺太千島交換条約成立。シュムシュ島からウルップ島までの18島の千島列島が日本領となる。5月村名は全て本字使用となる。
1876(明治9)年、9月走古譚村が発足する。
1879(明治12)年、7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。
1880(明治13)年、根室支庁管下、根室、厚岸、網走、振別の四郡役所が設けられる。
1881(明治14)年、遠太に駅逓所設置される。
1882(明治15)年、2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。
1885(明治18)年、3月春別に駅逓所を開設、取扱人に玉熊重吉となる。
1886(明治19)年、1月北海道庁を設置。野付郡が根室支庁の管轄となる。西別村ヤマカシムイで佐々木忠太郎農耕始める。8月道庁技師内田瀞ら15名によって根室原野の調査を行う。12月野付郡は根室外九郡役所の管轄下となる。
1887(明治20)年、尾岱沼に定住者が出始める。
1890(明治23)年、根室、別海、羅臼間の定期航路が開かれる。
1896(明治29)年、西別原野に畠沢石太郎、渡辺仁太郎が入植する。
1897(明治30)年、11月郡役所が廃止され、根室支庁の管轄となる。
1906(明治39)年、12月和田村管轄の厚別村を編入し別海外5ヶ村戸長役場と改める。
1910(明治43)年、9月奥行臼に駅逓所を設置する。馬3頭与えられた。
1911(明治44)年、西別原野に畑中団体33戸、133人入植する。
1917(大正6)年、4月西別駅逓所を開設し、取扱人を相山虎次郎とする。風蓮原野に斉藤栄六が入植する。
1918(大正7)年、奥行臼駅逓の一部を改築。
1921(大正10)年、10月風蓮原野に駅逓所を開設し、取扱人を早坂善次とする。
1923(大正12)年、1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。根室郡と野付郡の境界を風蓮湖口の中央とする。標津郡と野付郡の境界はトーポロ川とする。
1924(大正13)年、10月中春別に駅逓所設置される。厚床〜西別間に殖民軌道敷設され、西別駅が開設。
1929(昭和4)年、10月西別〜中西別間に軌道敷設される。
1930(昭和5)年、4月中西別駅逓所開設される。5月上春別駅逓所開設される。6月奥行臼駅逓廃止。
1931(昭和6)年、10月西春別駅逓所開設される。西別神社建立される。
1933(昭和8)年、12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。
1934(昭和9)年、10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転する。10月西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。11月殖民軌道上春別線開通。野付半島一帯の道立公園認定を申請。
1936(昭和11)年、10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。殖民軌道中春別線開通。
1937(昭和12)年、10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。
1943(昭和18)年、5月西春別飛行場の建設が着手される。
1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦。その後ソ連軍が北方四島を不法占拠する。引揚者454戸3302人が開拓移民として入植する。
1947(昭和22)年、5月地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。
1953(昭和28)年、12月中標津・別海が町村境界を決める。野付半島に灯台が設置される。
1955(昭和30)年、4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。
1962(昭和37)年、12月野付風蓮道立自然公園に指定される。
1970(昭和45)年、簡易軌道奥行臼〜上風蓮間廃止となる。
1971(昭和46)年、4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。町営バスの路線運行開始。
1972(昭和47)年、1月区画整理による新字名番地が施行される。
1976(昭和51)年、12月西別駅を別海駅に改称し、駅舎を新築する。
1978(昭和53)年、10月別海町開基百年記念式典挙行。
1981(昭和56)年、4月文化センター郷土資料館開館する。
1982(昭和57)年、11月奥行臼駅逓が、別海町文化財に指定される。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
1989(平成元)年、4月標津線全線廃止し、バス転換となる。
1993(平成5)年、4月別海町郷土資料館オープン。
1994(平成6)年、6月北海道指定文化財に奥行臼駅逓指定される。
2010(平成22)年、4月根室支庁が廃止され、根室振興局の管轄となる。
2011(平成23)年、9月「旧奥行臼駅逓所」の名称で、国の史跡に指定される。
2014(平成26)年、保存・修繕作業に伴い、一時閉鎖。
2018(平成30)年、10月「旧奥行臼駅逓所」が修繕を終える。
別海町百年史別冊付録、別海町三十年史参考

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