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中標津空港

住所 標津郡中標津町北中16番地9
TEL 0153-73-5601
運用時間 8時30分〜18時30分

根室中標津空港ビル株式会社

一般社団法人 なかしべつ観光協会

標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。
中標津の由来は、「シ・ペッ」(大きな川)(本流)の中流域にあることから。
中標津町中心部から道道69号中標津空港線を約4.2km。

中標津空港は、北海道最東端の空港で北海道が設置・管理している地方管理空港で、施設の管理業務を中標津空港管理事務所が行っている。
周辺地域の交通の要衝地として1965(昭和40)年に開港。1990(平成2)年延長1800m、幅45mの滑走路を供用開始と共にジェット化。1997(平成9)年2000mに延長され、知床国立公園などを訪れる観光の拠点として、今後さらに大きく貢献するものと期待されている。ドラマのロケ地にもなったこともある。
空港ターミナルは根室中標津空港ビル株式会社が運営。地上3階建て。

1階は、ANAカウンター、到着ロビー、レンタカー受付カウンター。
2階は、出発ロビー、搭乗待合室、レストラン・売店。
3階は、送迎デッキ。
ちなみに、定期路線を就航している全日空グループでは根室中標津空港の名称を使用している。
レンタカーは、到着ロビーすぐ右手に営業所までの送迎受付カウンターが設置されている。
営業所までは送迎車で案内してくれるのでカウンターで受付を済ませ送迎してもらうといいだろう。

1944(昭和19)年、旧日本海軍の標津第一航空基地として開港する。
1945(昭和20)年、米軍の空襲を受け、戦後閉港となり、農地として払い下げられた。
1957(昭和32)年、北日本航空(日本航空)が、農地として払い下げられ放置されていた飛行場跡を利用して、根室一円の遊覧飛行を行う。
1959(昭和34)年、北日本航空(日本航空)が、遊覧飛行事業を開始。中標津〜札幌線開設。
1965(昭和40)年、西春別空港から丘珠便の定期航空路線が移り、滑走路1200m供用開始し、中標津空港開港する。
1973(昭和48)年、8月北海道管理の空港となる。
1974(昭和49)年、8月日本近距離航空(NKA)により丘珠便運航開始。
1980(昭和55)年、5月日本近距離航空(NKA)により千歳便運航開始。
1988(昭和63)年、11月中標津空港管理事務所新庁舎完成する。
1989(平成元)年、7月新滑走路供用(1200m)。空港ターミナルビル供用開始「国内初の木造空港ビル」としてオープンする。
1990(平成2) 年、7月1800m幅45mの滑走路を供用開始と共にジェット化。エアーニッポンによる東京直行便の就航開始。
1993(平成5)年、4月中型機対応ターニングパッド(滑走路上で航空機が方向転換(Uターン)を行うことができる、滑走路の幅が広がっている部分)供用開始。エプロン及び誘導路拡幅に係る供用開始。
1996(平成8)年、11月ボーディングブリッジ(ターミナルビルから旅客機に乗客や乗員を乗降させるための設備で、搭乗橋(とうじょうきょう)ともいう)供用開始。
1997(平成9) 年、3月2000mの滑走路を供用開始。
2008(平成20)年、4月空港ターミナルビルが増築・リニューアルし供用開始 。
2010(平成22)年、6月末で丘珠便が廃止され、7月1日より新千歳空港線へ一本化され、千歳便が運航される。
2013(平成25)年、3月末現地の有人による飛行場対空通信業務終了。新千歳インフォメーションによるリモート監視に変更される。

中標津地域は、1855(安政2)年幕府は、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。1859(安政6)年11月会津藩領地となる。しかしこの頃中標津の開拓はほとんど進んでいなかったようで、標津の海岸と斜里・標茶ねの刈分け道があっただけだった。年代は不明だがチライワタラ(リ)(標津川とポン俣落川の合流地点の対岸)には通行屋があり、チナ(俵橋地区を流れる川)、タヲリマフ(俵真布川)、ヲン子リウル(ポンリウル川・さけ・ます孵化場のあった小川の上流)、ケ子カブト(ケ子川とシベツ川の合流付近)、カンチウシ(モアン山の西側麓)に簡単な休憩所があったようで、役人が通行する際にはシベツ番屋の番人やアイヌが食事などの世話をしたと加賀伝蔵が著した「加賀文書」に書かれている。
 1869(明治2)年6月開拓使を設置する。8月蝦夷を北海道と改称し、11国86郡を画定する。松本十郎を開拓判官に任命する。開拓使所管のうち目梨、標津二郡は熊本藩の支配となる。所管は根室、花咲、野付三郡。1870(明治3)年5月標津・目梨二郡の熊本藩支配を免じる。6月花咲・根室・野付三郡を東京府支配とする。10月東京府支配を止め根室出張所に属する。1871(明治4)年2月藤野喜兵衛に野付郡の漁場持ちを命ずる。5月標津・目梨郡を仙台藩支配とする。8月標津・目梨の支配をを免ずる。1872(明治5)年3月仙台県より標津・目梨を請取り根室支庁に所属する。8月別海〜標津間の道路開削する。9月根室出張開拓使庁を根室支庁に改める。根室国・釧路国・北見国東部四郡・千島国五郡を統括する。標津郡にシベツ(標津)村・イチヤニ(伊茶仁)村、目梨郡にチウルイ(忠類)村・クンベツ(薫別)村、野付郡にチヤシコツ(茶志骨)村が置かれる。1873(明治6)年7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。1874(明治7)年9月開拓使雇ヘント・ライマン地質調査のため標津へ一泊、翌日養老牛温泉を視察して斜里へ至る。明治10年頃までは開拓はあまり進んでいない。1879(明治12)年7月根室郡役所の管轄となる。標津村(現・標津町)開基。標津郡戸長役場が設置される。1882(明治15)年開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。1885(明治18)年5月根室外九郡役所の管轄となる。1886(明治19)年、1月函館・札幌・根室の三県と北海道事業管理局を廃し、北海道庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置く。3月北海道庁、函館・根室支庁開庁する。12月根室支庁廃止となる。1889(明治22)年植民地選定、中標津地方は「中割原野」「モサ原野」「当幌原野」区画。1897(明治30)年11月根室外九郡役所、紗那外三郡役所を廃し、根室支庁・紗那支庁を置く。1898(明治31)年西別・標津原野に植民区画する。1901(明治34)年6月中標津原野に殖民地を区画する。1907(明治40)年標津駅逓取扱人の芦沢勇吉が俵橋地区の100万坪を出願し牧場を経営する。本格的な開拓を見るのは翌年からである。1911(明治44)年乾定太郎(徳島県)を団長とする徳静団体13戸、41人の入植により俵橋地区11線(チライワタラ)に開拓の鍬が入る。
 1914(大正3)年チナナ川に近藤徳三郎が澱粉工場を設置する。1919(大正8)年標津〜中標津間開削道路完成。武佐駅逓所開設、取扱人を伊藤繁喜とする。大正に入り武佐・中標津・開陽・俣落へと入植者が増えて行きこの年2000戸にもなった。1921(大正10)年厚床〜中標津間道路開通。1923(大正12)年4月標津村・伊茶仁村・茶志骨村・忠類村・薫別村・崎無異村(崎無異川流域)が合併して二級町村制を施行、標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。
 1926(昭和元)年12月標津〜中標津間拓殖軌道開通。翌年より運用開始。中標津〜計根別間に軌道敷設。1927(昭和2)年中標津から計根別まで殖民軌道計根別線が開通する。中標津町の現在地に国費によって、鉄筋コンクリート造2階建で北海道農事試験場根室支場(後の道立根釧農業試験場)が設置される。12月竣工。1929(昭和4)年8月字の名称改正。養老牛地区に95戸入植。中標津に火力発電による点灯。1930(昭和5)年3月標津市街の一部中標津火力発電により点灯。1933(昭和8)年10月日本硫黄株式会社が武佐鉱山の採掘に着手、事務所を川北におく。12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。1934(昭和9)年10月西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。1936(昭和11)年10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。殖民軌道中春別線開通。1937(昭和12)年10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。1938(昭和13)年中標津・西当幌に入植者が入る。1940(昭和15)年計根別に入植者が入る。1943(昭和18)年中標津飛行場できる。1946(昭和21)年7月標津村の一部を分割し、中標津村とする。1950(昭和25)年町制施行し中標津町となる。1953(昭和28)年12月中標津・別海が町村境界を決める。1955(昭和30)年4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。
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