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上武佐開拓の泉

住所 標津郡中標津町字武佐957番地5

一般社団法人 なかしべつ観光協会

標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。
中標津の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)の中流域にあることから。
武佐の由来は、アイヌ語の「モサ」「ムサ」(イラクサの意で、この植物から織物や糸の繊維を取った)に由来するようである。
中標津町市街地の大通南1大通北1交差点から、道道69号中標津空港線中標津空港方面に約2.7km進む、交差点を右折して道道774号川北中標津線に入り約6.2kmほど。

上武佐駅跡には、映画「遙かなる山の呼び声」の撮影ロケ地がある。同敷地内に文化財になった建物 「北村邸主屋(旧土田旅館)」があり、道路沿い上武佐停留所のちょっと奥まった場所に上武佐開拓の泉がある。水量も豊富で、地下浸透水が湧き出したものとのこと。
北村邸主屋は、1916(大正5)年10月上武佐地区に官設「武佐駅逓所」として開駅、初代取扱人は伊藤繁喜氏。当時の駅逓所は1階平屋建てであった。
2001(平成13)年北村久美子氏が所有者となり建造物を修復・改修し居住、一般住宅として活用されている。(一般公開はしていないので注意してほしい)


武佐は、1929(昭和4)年8月字の名称改正し現在の武佐になった。それ以前は標津村大字標津村の一部。1889(明治22)年植民地選定し、中標津地方は「中割原野」「モサ原野」「当幌原野」区画となる。1898(明治31)年西別・標津原野に植民区画する。1901(明治34)年6月中標津原野を民地として区画開放される。1907(明治40)年標津駅逓取扱人の芦沢勇吉が俵橋地区の100万坪を出願し牧場を経営する。本格的な開拓を見るのは翌年からである。1911(明治44)年乾定太郎(徳島県)を団長とする徳静団体の入植により俵橋地区(チライワタラ)に開拓の鍬が入る。明治末期頃に北見のアイヌサンケチャチャが一人で漁猟生活を営んでいたが開拓者が入植してくるにつれ獲物が減ったこともあり老衰死したとある。
 1913(大正2)年岐阜県人の吉田七平・惣吉・守吉兄弟が武佐地区に入植する。1914(大正3)年吉田庄次郎・作衛が入植して吉田団体と呼ばれた。1915(大正4)年伊藤繁喜が入植する。その後長沼の浦安太郎らが入植し長沼団体と呼ばれている。この頃武佐・中標津・開陽・俣落へと入植者が増えていく。1916(大正5)年武佐神社建立する。1917(大正6)年標津尋常高等小学校武佐特別教授場設置する。1919(大正8)年武佐駅逓所開設、取扱人を伊藤繁喜とする。ギリシャ正教上武佐ハリストス正教会を建設する。真宗大谷派観照時(現・標津郡中標津町北町)建立する。1920(大正9)年曹洞宗正傳寺(現・標津郡中標津町武佐16-83)建立。1921(大正10)年には甜菜が試作されるが輸送上の問題からあまり普及しなかった。1923(大正12)年、4月標津村・伊茶仁村・茶志骨村・忠類村・薫別村・崎無異村(崎無異川流域)が合併して二級町村制を施行、標津村大字標津村の一部となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。武佐・開陽地区に乳牛が導入され飼育が始まる。農産物検査場が設置。この頃上武佐と武佐中央の市街地が形成される。1925(大正14)年武佐に集乳工場ができる。植民軌道(厚床〜中標津間)開通する。1926(大正15)年標津〜武佐〜中標津間が開通する。
 1927(昭和2)年1月殖民軌道(線路の上の貨車を馬で引く)が中標津市街から中央武佐地区まで延び駅逓所は上武佐地区から武佐中央地区に移築された。昭和初期の戸数は216戸、1616人。この頃虫害・大冷害・晩霜と農業が大打撃を受け、馬鈴薯が奨励される。澱粉工場も建ち乳牛も増えて行く。1931(昭和6)年国鉄標津線着工される。5月官設「武佐駅逓所」が廃止となる。1933(昭和8)年5月伊藤正信氏(繁喜の長男)に無償付与され民営駅逓所として運営される。1936(昭和11)年標津線の開通により殖民軌道も廃止されるため、駅逓の建造物は駅が設置される上武佐地区に再移築し駅逓所は廃止となる。1937(昭和12)年移築した駅逓所を活用し「土田旅館」開業する。10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。駅が上武佐に置かれたことにより武佐中央市街は寂れていく。1946(昭和21)年7月標津村から分村し中標津村が設置される。1950(昭和25)年1月町制施行、中標津町となる。1975(昭和50)年観照時は標津郡中標津町北町に移転する。1985(昭和60)年土田旅館は廃業となる。
 1989(平成元)年4月標津線の廃止に伴って廃駅となる。2007(平成19)年上武佐地区の北村家住宅主屋(旧土田旅館)が当町初の登録有形文化財(建造物)に選ばれる。


1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1799(寛政11)年、幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明東えぞ地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る野付に通行屋できる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。7月江戸よりの探検船凌風丸忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1855(安政2)年、幕府は、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。
1857(安政4)年、標津川沿いの山道(標津〜斜里間)を幕府の役人視察のため多数通行する。
1859(安政6)年、11月会津藩領地となる。しかしこの頃中標津の開拓はほとんど進んでいなかったようで、標津の海岸と斜里・標茶ねの刈分け道があっただけだった。
1869(明治2)年、6月開拓使を設置する。8月蝦夷を北海道と改称し、11国86郡を画定する。松本十郎を開拓判官に任命する。開拓使所管のうち目梨、標津二郡は熊本藩の支配となる。所管は根室、花咲、野付三郡。
1870(明治3)年、5月標津・目梨二郡の熊本藩支配を免じる。6月花咲・根室・野付三郡を東京府支配とする。10月東京府支配を止め根室出張所に属する。
1871(明治4)年、2月藤野喜兵衛に野付郡の漁場持ちを命ずる。5月標津・目梨郡を仙台藩支配とする。8月標津・目梨の支配をを免ずる。
1872(明治5)年、3月仙台県より標津・目梨を請取り根室支庁に所属する。8月別海〜標津間の道路開削する。9月根室出張開拓使庁を根室支庁に改める。根室国・釧路国・北見国東部四郡・千島国五郡を統括する。標津郡にシベツ(標津)村・イチヤニ(伊茶仁)村、目梨郡にチウルイ(忠類)村・クンベツ(薫別)村、野付郡にチヤシコツ(茶志骨)村が置かれる。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1874(明治7)年、ライマン、養老牛温泉を調査する。
1879(明治12)年、7月根室郡役所の管轄となる。標津村(現・標津町)開基。標津郡戸長役場が設置される。
1882(明治15)年、開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。
1885(明治18)年、5月根室外九郡役所の管轄となる。
1886(明治19)年、1月函館・札幌・根室の三県と北海道事業管理局を廃し、北海道庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置く。3月北海道庁、函館・根室支庁開庁する。12月根室支庁廃止となる。
1889(明治22)年、植民地選定、中標津地方は「中割原野」「モサ原野」「当幌原野」区画。
1897(明治30)年、11月根室外九郡役所、紗那外三郡役所を廃し、根室支庁・紗那支庁を置く。
1898(明治31)年、西別・標津原野に植民区画する。
1901(明治34)年、6月中標津原野を民地として区画開放される。
1907(明治40)年、標津駅逓取扱人の芦沢勇吉が俵橋地区の100万坪を出願し牧場を経営する。本格的な開拓を見るのは翌年からである。
1911(明治44)年、乾定太郎(徳島県)を団長とする徳静団体の入植により俵橋地区(チライワタラ)に開拓の鍬が入る。
1913(大正2)年、 炭焼き小屋にて乾定太郎が寺子屋式の学校を始める。
1914(大正3)年、 中標津駅逓所設置する。乾定太郎が取扱人となる。チナナ川に近藤徳三郎が澱粉工場を設置する。
1916(大正5)年、 西村武重、養老牛温泉の開発に着手する。
1919(大正8)年、 標津〜中標津間道路完成する。武佐駅逓所開設、取扱人を伊藤繁喜とする。
1920(大正9)年、 中標津市街の1条通〜4条まで区画整理される。
1921(大正10)年、厚床〜中標津間道路開通する。
1923(大正12)年、4月標津村・伊茶仁村・茶志骨村・忠類村・薫別村・崎無異村(崎無異川流域)が合併して二級町村制を施行、標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。武佐・開陽地区に乳牛が導入され飼育が始まる。
1925(大正14)年、武佐に集乳工場ができる。植民軌道(厚床〜中標津間)開通する。
1927(昭和2)年、 中標津市街地に北海道農事試験場根室支場の建設が始まる。中標津〜計根別まで殖民軌道計根別線が開通する。
1928(昭和3)年、 標津〜中標津・計根別・標茶までバス運行開始する。
1929(昭和4)年、8月字の名称改正。養老牛地区に95戸入植。中標津に火力発電による点灯。
1930(昭和5)年、3月標津市街の一部中標津火力発電により点灯。
1931(昭和6)年、 国鉄標津線着工される。
1933(昭和8)年、10月日本硫黄株式会社が武佐鉱山の採掘に着手、事務所を川北におく。12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。
1934(昭和9)年、10月西別〜中標津間が延伸開業。春別・中標津の各駅を新設する。
1936(昭和11)年、10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。殖民軌道中春別線開通。
1937(昭和12)年、10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。
1938(昭和13)年、中標津・西当幌に入植者が入る。
1940(昭和15)年、計根別に入植者が入る。
1941(昭和16)年、日本陸軍航空隊計根別第4飛行場として開港する。
1944(昭和19)年、旧日本海軍の「標津第一航空基地」完成(現・中標津空港付近)したが、敗戦を迎えそのまま放置される。
1946(昭和21)年、7月標津村から分村し中標津村が設置される。
1950(昭和25)年、1月町制施行、中標津町となる。
1955(昭和30)年、4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。
1957(昭和32)年、北日本航空(日本航空)が、農地として払い下げられ放置されていた海軍飛行場跡を使用し、根室一円の遊覧飛行を行う。
1959(昭和34)年、北日本航空(日本航空)が、「西春別空港」で遊覧飛行事業を開始。中標津〜札幌線開設。
1962(昭和37)年、3月開陽台観光開発着手する。6月十勝岳大爆発、養老牛、俣落、西竹、開陽、武佐方面に1〜mmの降灰あり。8月開陽台展望台完成する。
1965(昭和40)年、西春別空港から丘珠便の定期航空路線が中標津空港に移り、滑走路1200m供用開始、中標津空港開港する。陸上自衛隊が別海分屯地への駐屯を開始。11月開発道路清里・中標津線開通。
1971(昭和46)年、7月郷土館開館する。
1973(昭和48)年、8月北海道管理の空港となる。
1976(昭和51)年、2月第1回冬まつり開催される。
1977(昭和52)年、7月緑ヶ丘森林公園開園する。
1983(昭和58)年、7月郷土館分館(旧農試陳列館)開館する。
1989(平成元)年、4月標津線全線廃止し、バス転換となる。7月新空港供用開始
1995(平成7)年、6月開陽台、旧展望台に替わり開陽台展望館が完成する。
2001(平成13)年、10月「根釧台地の格子状防風林」が北海道遺産に認定される。
2003(平成15)年、12月羅臼町との「飛び地合併」を目指し法定合併協議会設置される。
2004(平成16)年、11月羅臼町と合併の可否を問う住民投票・反対6割に達する。12月羅臼町との合併断念を決定。
2007(平成19)年、10月雪印乳業(株)なかしべつ新工場竣工する。上武佐地区の北村家住宅主屋(旧土田旅館)が当町初の登録有形文化財(建造物)に選ばれる。
2008(平成20)年、4月空港ターミナルビルが増築・リニューアルし供用開始。
2009(平成21)年、6月映画「釣りバカ日誌20ファイナル」のロケが中標津町を含む道東で行われる。
2010(平成22)年、6月末で丘珠便が廃止され、7月1日より新千歳空港線へ一本化され、千歳便が運航される。
中標津町町史参考

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