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メロディーロード

住所 標津郡標津町川北北7線東1

標津町観光協会

株式会社 篠田興業

標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。
川北の由来は、標津川の北側に位置することによる。
標津町市街地から国道244号線を斜里方向に約5.8km進み、さけ・ます資源管理センターの先にある交差点を左折、約2.6kmほどに町道川北北7線道路にメロディロードの看板があるので右折、約2.6kmほど進むとある。

メロディーロードとは、アスファルト舗装の表面を加工して、 深さ3mm〜6mmほど、幅6mm〜24mmほどの溝を複数切削することにより車両が通過する際発生する走行音が音楽のように聞こえる道路である。
一度聴くと感動もの、窓は閉めて、法定速度で走るとよく聞こえる。曲は知床旅情。 2004(平成16)年11月に作られた。施工場所は標津郡標津町川北北7線東1の道道774号川北中標津線側にある。曲が終わった後には一時停止のT字交差点があるので注意してほしい。

2005(平成17)年9月、篠田興業と北海道立総合研究機構が特許出願申請をしていたメロディーロードが特許となった。 技術の無断使用は特許侵害の恐れがあるので注意してほしい。

川北は、1929(昭和4)年8月字の名称改正し、大字を廃止。川北となる。元は標津村の一部。1958(昭和33)年1月町制施行標津町の行政字である。1869(明治2)年10月根室開拓使に出張所を設ける。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。熊本藩支配となる。根室国標津郡に属する。1871(明治4)年5月標津、目梨2郡を仙台藩支配とする。1872(明治5)年藤野伊兵衛、標津、目梨両郡の漁場持となる。8月別海〜標津間8里47間新道完成。標津、目梨を仙台県より請取り、根室支庁管轄となり標津村の一部となる。江戸期からのシベツ・モサフト・シユラ・サンボツキ・トヱビラ・チナナ・アシタロマツフ・チラヱワタラ・ケ子カブト・ホンケ子カ・カンチウシ・ホンケ子タイ・ケ子ワツカナイからなる。成立時はシベツ村。1873(明治6)年7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。1874(明治7)年9月開拓使雇ヘント・ライマン地質調査のため標津へ一泊、翌日養老牛温泉を視察して斜里へ至る。1875(明治8)年3月町村名を従来の仮名であったものを本字に改める。標津郡(標津村、伊茶仁村)目梨郡(忠類村、薫別村、植別村)。6月野付出張所を廃し、支庁直轄となる。世帯数は27戸、130人。アイヌは19戸、97人。1877(明治10)年標津に村役場をおく。このころから移住者が増えていく。初代戸長の慎氏が自宅にて寺子屋式教授を行う。1879(明治12)年7月根室郡役所の管轄となる。戸長役場を標津に設け、標津、伊茶仁、2ケ村を統治。標津町の開基となる。1880(明治13)年3月忠類川に渡船場を設く。取扱人小桜長蔵。6月標津郡、目梨郡へ戸長1人配置。標津、目梨両郡戸長役場と被称、標津村、伊茶仁村、薫別村、崎無異村、忠類村、植別村の6ヶ村統治。忠類より薫別に至る道路開く。1882(明治15)年2月開拓使根室支庁を廃し、根室県をおき根室県の管轄となる。1884(明治17)年10月野付郡茶志骨村を編入。標津外6ヶ村戸長役場となる。1885(明治18)年新斜里山道(国道244号線)開削する。遠藤勇馬がホニコイに入植する。1886(明治19)年1月3県1局を廃し北海道庁を設置。標津は根室支庁管轄となる。1900(明治33)年9月標津神社創設。1901(明治34)年植別村を分割。12月標津に駅逓をおく(宮嶋旅館)。1911(明治44)年この年原野に入植が始まったが道内一円に一度入植したが再度標津に入植したものが多かった。1912(明治45・大正元)年河野竹太郎を団長とする天塩団体8戸が入植したのが川北の始まりとなる。沢田市右衛門が牧場を創設。

 1913(大正2)年奥勝平を団長とする長沼団体が川北に入植する。山口利八・河内弥太郎入植する。1914(大正3)年松実孝太郎を団長とする奈良団体13戸川北へ入植。奥氏は雑貨商を開業する。1915(大正4)年川北地区は32戸となる。弓削蠖三が私設の教育所を開設する。辰田不染が川北に入植し、浄土真宗本願寺派説教所を創設する。このころ標津原野には開拓道路甲線と川北乙線があったが荷馬車がやっと通れるだけの幅しかなかったようである。椴山に新潟団体が入植する。この集落は北標津と呼ばれる。1919(大正8)年沢田牧場は中村千松が買受け中村牧場となる。この中村氏は水田の試作を試み、味噌の醸造を試作するなど大きく貢献する。標津〜中標津間開削道路完成。1921(大正10)年川北尋常小学校の付属北標津特別教授所設置。1923(大正12)年4月二級町村制が施行、標津村・伊茶仁村・薫別村、茶志骨村・崎無異村・忠類村・薫別村が合併し標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。川北・武佐・中標津・計根別地区に市街地が形成される。川北34戸入植する。国有地の無償貸付をうけて共同牧場とする。川北尋常小学校に高等科併置。1925(大正14)年〜1927(昭和2)年にかけて厚床より中標津を経て標津に至る殖民軌道根室線が順次開通していく。1926(大正15・昭和元)年中村氏は川北製材合資会社を設立する。川北温泉を開発したり、温泉から塩を取ったりもした。

 1926(昭和元)年12月標津〜中標津間拓殖軌道開通。翌年より運用開始。川北に停留所設置。中標津〜計根別間に軌道敷設。木材の搬出が盛んとなる。1929(昭和4)年8月字の名称改正し、大字を廃止。茶志骨・崎無異・薫別・古多糠・忠類・伊茶仁・標津・川北・武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・中標津・俵橋を編成。世帯数は47戸。1930(昭和5)年3月標津市街の一部中標津火力発電により点灯。川北に種馬所設置。1933(昭和8)年12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。凶作だったことから救済土木工事と称して斜里山道と7号道路を改修する。集乳所設置する。1935(昭和10)年川北尋常小学校と北標津教授所を合併し、北標津尋常小学校と称する。1937(昭和12)年10月計根別〜根室標津間鉄道開通し、標津線全通する。根北線鉄道起工。殖民軌道廃止。1940(昭和15)年根北線鉄道敷設中止。北標津に集乳所設置する。1943(昭和18)年海軍飛行場用地の測量が始まり農家の一部が移転する。1946(昭和21)年7月標津村の一部(武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・中標津・俵橋)を分割し、中標津村とする。1947(昭和22)年川北中学校開校する。1948(昭和23)年川北中学校北標津分校開校する。1949(昭和24)年川北温泉療養所開設する。1952(昭和27)年十勝沖地震により川北小学校が倒壊する。1958(昭和33)年1月町制施行標津町となる。川北集乳コールドステーション竣工する。1962(昭和37)年12月野付、風蓮道立自然公園指定。1965(昭和40)年1965(昭和40)年世帯数は395戸、1954人。1974(昭和49)年北標津開拓記念碑建立する。1977(昭和52)年川北の世帯数479戸、1774人。1979(昭和54)年3月伊茶仁カリカリウス遺跡、標津湿原が国の指定を受け、公園整備始まる。1980(昭和55)年9月ポー川史跡自然公園オープン。
 1989(平成元)年4月JR標津線廃止、標津線代替バス運行。
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