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別海町交流センター 郊楽苑

住所 野付郡別海町別海141-100
TEL 0153-75-0711
入浴時間 11時30分〜22時(受付終了21時)
定休日 無休
入浴料 大人510円、小学生200円、幼児無料
貸しタオル 100円(フェイスタオル・バスタオルセット)

別海町交流センター 郊楽苑

別海町観光協会

野付の由来は、アイヌ語の「ノッケウ」(あご)から。昔ここへ大きな鯨が流れ寄り、その下顎がこの埼(さき)になったという説と砂嘴の形状から名づけられたという説がある。
別海の由来は、アイヌ語の「ベッ・カイェ」(川の折れ曲がっているところ)から。元禄年間には「べけるる」、安政年間には、「ヘッカイ」と呼ばれ、1872(明治5)年に別海となった。
別海町宮舞町の国道243号線道道8号根室中標津線の交差点から虹別方向に約1.7kmほどに看板があるので左折し、1kmほど進み左折すると右手にある。

小高い丘の上に建つモダンな「郊楽苑」は、宿泊からレストラン、温泉と観光客やキャンパー、町民の保養、研修など憩いの場としても利用される多目的施設として1991(平成3)年12月にオープンした。
「郊楽苑」の建設にあわせ、すぐそばにはグリーン広場を整備した。1992(平成4)年には、ふれあいキャンプ場も整備され、パターゴルフ9ホールと遊戯施設も整備された。
この温泉は、1989(平成元)年6月から掘削し、1990(平成2)年に完了、このとき掘削開発した温泉を活用する形で、保養センターに代わり設けられたもので、源泉100%かけ流しのモール温泉は、肌にやさしい保湿性があり好評の温泉である。
男女別の浴室は内湯と露天風呂からなり、水風呂・打たせ湯・泡風呂・ジェット風呂・サウナとなっている。
源泉温度が38.4℃と少しぬるいため加温されている。(かけ湯と寝湯以外は加熱)

泉質 ナトリウム・塩化物泉(弱アルカリ性低張性温泉)
源泉温度 38.4℃、PH7.9
効能 神経痛・筋肉痛・五十肩・慢性皮膚炎・冷え性・うちみくじき・痔疾・慢性消化器病・関節炎・健康増進

別海は、江戸期から見られる地名で、元禄年間には「べけるる」「ベツカエ」と書かれている。江戸期のベツカエは西別川河口部左岸を指すようである。1822(文政5)年のベツカエのアイヌは16軒、82人。松浦武四郎が著した「廻浦日記」には「ヘツカエ、番屋立継通行屋有。ノツケへは此処より船を出す也・・・此処御献上鮭塩切場、板蔵七棟、雑蔵四棟、稲荷社、御制札等有。此処もむかしは三十軒余有。当時十六軒、人別七拾三人有と聞り。当所の惣乙名シタタキ儀は子モロ領分中の惣乙名にて、万事此者より出る也」とある。1859(安政6)年11月別海は、西別川を境に南を仙台藩、北を会津藩領地とする。和人の渡辺多七郎は、藤野漁場の監督者として慶応年間から定住を始め、別海の定住の草分け的存在である。
 1869(明治2)年根室国野付郡に属する。別海町史によると、「明治初年ノ頃藤野四郎兵衛カ鮭漁業経営ノ為メ青森県岩手県ヨリ漁夫数十人ヲ募集シ来リ漁撈ニ従事シタルヲ動機トシテ後、明治七年柳田藤吉ナルモノ鮭鱒角網従事ノ為メ漁夫百数十人ヲ募集シ来リ漁撈スルニ至リシモ、是等多クハ年期稼スルモノニシテ春季渡来シテ終秋帰郷スルヲ例トシテ」などと記述されている。こうした季節労働者の定着は、本別海を中心として1871(明治4)年頃にはアイヌを含めた村落が形成されていったようである。これには1870(明治3)年10月別海駅逓を藤野により取扱われる。西別出張所が焼失し、別海に移転新築し別海役所と称した。当時の西別村は藤野四郎兵衛や柳田藤吉らによって有能な漁場として繁栄するも、隣接する別海村が村落として充実していたこともあり番屋のみで定住者はほとんど増加しなかったようである。1872(明治5)年3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。本別海の部落形成が始まる。1873(明治6)年病院ができる。1875(明治8)年5月村名は全て本字使用となり「別海村」と表記する。1876(明治9)年1月別海に郵便局を設置する。9月走古譚村が発足する。1878(明治11)年7月別海に官設缶詰所落成する。1879(明治12)年7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。1882(明治15)年2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。小学校が開校する。1886(明治19)年野付郡が根室支庁の管轄となる。西別村ヤマカシムイで佐々木忠太郎農耕始める。12月野付郡は根室外九郡役所の管轄下となる。この頃の和人の定住者は30人程度。1891(明治24)年の戸数は51戸、人口は376人。1906(明治39)年12月和田村管轄の厚別村を編入し別海外5ヶ村戸長役場と改める。1910(明治43)年9月奥行臼に駅逓所を設置する。
 1923(大正12)年1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。成立時の戸数は602戸、人口2426人。この頃から西別市街が区画され、牛馬の生産が始まる。1924(大正13)年厚床〜西別間に殖民軌道敷設される。
 1927(昭和2)年〜1931(昭和6)年にかけて第二期拓殖計画に基づき1918戸が入植する。しかし冷害が続いたこともあり酪農・畜産業へ転換する。1930(昭和5)年。6月奥行臼駅逓廃止。1933(昭和8)年12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。1934(昭和9)年10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転し、村の中心部は内陸に移る。標津線の西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。1940(昭和15)年には北海道製酪販売組合連合会(後の雪印乳業)の工場が建設される。1945(昭和20)年日本がポツダム宣言を受諾し、終戦。その後ソ連軍が北方四島を不法占拠する。引揚者454戸3302人が開拓移民として入植する。1947(昭和22)年5月地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。1953(昭和28)年12月中標津・別海が町村境界を決める。野付半島に灯台が設置される。1955(昭和30)年4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。パイロットファーム事業を開始する。1965(昭和40)年全道一の乳牛多頭飼育優良村として表彰を受ける。1971(昭和46)年4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。1972(昭和47)年1月区画整理による新字名番地が施行される。1976(昭和51)年12月西別駅を別海駅に改称し、駅舎を新築する。

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