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清原日出夫歌碑

住所 標津郡中標津町東2条南3丁目1番地1(中標津町図書館前歩道付近)

一般社団法人 なかしべつ観光協会

標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。
中標津の由来は、「シ・ペッ」(大きな川)(本流)の中流域にあることから。
中標津町図書館すぐそば

中標津町出身の歌人、清原日出夫生誕70年を記念し、小・中学校時代の同級生らが歌碑建設を計画。2006(平成18)年9月に中標津町図書館前に建立。
歌碑は町のシンボルである武佐岳をイメージしたデザイン。

産み月に
入りし
若牛立ちながら
涙溜めいること
多くなる
揮毫 中標津町長 西澤雄一


碑文
清原日出夫は一九三七年中標津町に生まれ
二〇〇四年長野県で没した。
 この歌は帰省した折の作である。若牛に注
がれるあたたかい眼差しは彼が終生持ち続け
たものである。
「それぞれは秀でて天を目指すとも
寄り合うたしかに森なる世界」
 これは彼が生前中に高校の教科書に掲載さ
れた歌であるが、森の成り立ちに寄り添いな
がら人と社会のかかわり方まで考えさせられ
る。
 いずれにしても武佐岳の裾野に拓ける広大
できびしい自然が育んだ歌人といえよう。

中標津地域は、年代は不明だがチライワタラ(リ)(標津川とポン俣落川の合流地点の対岸)には通行屋があり、チナ(俵橋地区を流れる川)、タヲリマフ(俵真布川)、ヲン子リウル(ポンリウル川・さけ・ます孵化場のあった小川の上流)、ケ子カブト(ケ子川とシベツ川の合流付近)、カンチウシ(モアン山の西側麓)に簡単な休憩所があったようで、役人が通行する際にはシベツ番屋の番人やアイヌが食事などの世話をしたと加賀伝蔵が著した「加賀文書」に書かれている。
 明治10年頃までは開拓はあまり進んでいない。1889(明治22)年植民地選定、中標津地方は「中割原野」「モサ原野」「当幌原野」区画。1898(明治31)年西別・標津原野に植民区画する。1901(明治34)年6月中標津原野に殖民地を区画する。1911(明治44)年乾定太郎(徳島県)を団長とする徳静団体13戸、41人の入植により俵橋地区11線(チライワタラ)に開拓の鍬が入る。
 1919(大正8)年標津〜中標津間開削道路完成。武佐駅逓所開設、取扱人を伊藤繁喜とする。大正に入り武佐・中標津・開陽・俣落へと入植者が増えて行きこの年2000戸にもなった。1921(大正10)年厚床〜中標津間道路開通。1923(大正12)年4月標津村・伊茶仁村・茶志骨村・忠類村・薫別村・崎無異村(崎無異川流域)が合併して二級町村制を施行、標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。
 1926(昭和元)年12月標津〜中標津間拓殖軌道開通。翌年より運用開始。中標津〜計根別間に軌道敷設。1927(昭和2)年中標津から計根別まで殖民軌道計根別線が開通する。中標津町の現在地に国費によって、鉄筋コンクリート造2階建で北海道農事試験場根室支場(後の道立根釧農業試験場)が設置される。12月竣工。1929(昭和4)年8月字の名称改正。養老牛地区に95戸入植。中標津に火力発電による点灯。1931(昭和6)年国鉄標津線着工される。1933(昭和8)年中標津製酪工場(後の雪印乳業中標津工場)操業。1934(昭和9)年10月西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。1938(昭和13)年中標津・西当幌に入植者が入る。1943(昭和18)年中標津飛行場できる。1946(昭和21)年7月標津村の一部を分割し、中標津村とする。1947(昭和22)年中標津小学校に併置して中標津中学校開校する。1948(昭和23)年旧陸軍計根別飛行場兵舎の払い下げを受けて中標津中学校として開校する。中標津高校を併置するが翌年新校舎を建設し分離する。1950(昭和25)年町制施行し中標津町となる。1953(昭和28)年12月中標津・別海が町村境界を決める。1959(昭和34)年〜1972(昭和47)年まで澱粉工場が操業していたが、悪臭の為北町1〜2丁目に移転した。
丸山地区は、1974(昭和49)年からの町名で1〜4丁目がある。1978(昭和53)年字中標津の一部を編入する。1980(昭和55)年盛恵木材が火事で焼失した跡地に町役場を建設する。1982(昭和57)年丸山小学校を開校する。
 1989(平成元)年4月標津線全線廃止し、バス転換となる。

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