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旧柏野尋常小学校奉安殿

住所 野付郡別海町西春別105番11

別海町観光協会

野付の由来は、アイヌ語の「ノッケウ」(あご)から。昔ここへ大きな鯨が流れ寄り、その下顎がこの埼(さき)になったという説と砂嘴の形状から名づけられたという説がある。
別海町の由来は、アイヌ語の「ベッ・カイェ」(川の折れ曲がっているところ)から。元禄年間には「べけるる」、安政年間には、「ヘッカイ」と呼ばれ、1872(明治5)年に別海となった。
西春別の由来は、アイヌ語の「シュム・ペツ」(西の川、油の川、溺死する川)と諸説ある。
国道243号線の西春別市街地から道道957号大成西春別線に入り、中標津町方向に約3.6kmほどの十字路を右折し、約1.6kmほど左。

柏野尋常小学校は、1929(昭和4)年「西別小学校附属上春別第四特別教授場」として開校した。当時の児童数は134名だった。
1931(昭和6)年には、柏野尋常小学校に改称し、1941(昭和16)年には柏野国民学校に改称している。
1944(昭和19)年、計根別第三飛行場の建設のため、開進国民学校の移転が強要され、柏野国民学校も解体されて大成国民学校となった。
奉安殿建設は、当時の天皇の北海道行幸である。1936(昭和11)年天皇は石狩平野での陸軍特別大演習に前後して、道内各地を行幸したことによるもので、柏野尋常小学校の奉安殿は、1937(昭和12)年10月に竣工した。建築費は700円だったが、完成した奉安殿に御真影が下賜されたのは、1938(昭和13)年10月だった。
2013(平成25)年5月に別海町指定文化財に指定された。

案内板
別海町指定文化財(有形文化財)
指定年月日 平成二十五年五月二十四日
員数 一棟
所有者 別海町
所在地 野付郡別海町西春別一〇五番地一一
指定理由及び解説
 本物件は、旧柏野尋常小学校敷地内に設置された奉安殿である。
奉安殿とは、明治以降、学校に下賜された天皇・皇后の御真影(写
真)や教育勅語謄本を納めていた建物のことで、戦後その多くは
文部省の命令などにより撤去された。
 柏野尋常小学校に奉安殿が作られたのは一九三七(昭和十二)
年十月五日で、建設費は七百円のうち、柏野地区からの寄附が
三百五十円であった。翌年十月三十日に同校に御真影が下賜され
て奉安殿に納められている。
一九四四(昭和十九)年、計根別飛行場の建設により、開進国
民学校(小学校)が閉校して大成国民学校が新設されることに伴
い、柏野国民学校も大成国民学校に吸収されて閉校することに
なった。御真影は大成国民学校に奉遷されたが、奉安殿は地元の
神社本殿として使われることになり、その後の撤去命令の対象外
となったことから、現在に至るまで残っていると考えられる。
 戦後に破壊命令が出たことから、奉安殿が現在も残っているこ
とは稀であり、町内に現存する奉安殿は本物以外には確認され
ていない。
 以上のように本物件は、戦前の小学校で行われていた教育を物
語る極めて重要な歴史遺産である。
平成二十五年八月
別海町教育委員会
※この看板は、平成二十五年度北方領土隣接地域振興等補助金(基金事業)による補助を受けて作成しました。

ほとんどの奉安殿は敗戦後、文部省の命令などによって撤去命令が出され解体、撤去された。にもかかわらず柏野の奉安殿が現存しているのは、1944(昭和19)年の時点で柏野国民学校は存在せず、奉安殿を柏野神社としたため、戦後に撤去の対象とはならなかったようである。
コンクリート製の建造物ではあるものの、経年劣化が進み破損も見られる。奉安殿周囲には、鉄柵と門扉があったようであるが私が訪問したときには無かった。
現在校舎のあった場所には柏野会館がある。門扉も現存しており会館裏手にあったが写真は撮っていない。

柏野開拓の碑
すぐ横には開拓碑が置かれている。

西春別地区の入植は、1930(昭和5)年に区画された市街地、西春別原野への区画は翌、1931(昭和6)年に実施された。
この年に、殖民軌道も標茶〜同市街地に至る路線が完成。計根別に至る路線が1932(昭和7)年に開通するなど受け入れ態勢も整っていたようである。
1932(昭和7)年10月には小原賢造により、駅逓所も開設され、柏野特別教授分校なども設置され、1934(昭和9)年には上春別と結ぶ軌道もさらに開通し、約30戸ほどの市街地が形成されたようだ。 西春別原野への入植は、同年、東北、長野、兵庫などから61戸の入植をみた。
その後、1937(昭和12)年8月から西春別市街の一部を含む西春別原野に、陸軍省軍馬補充部の建設が開始され、関連地区の立ち退きを命じられ(西春別原野も例外ではなかった)、1936(昭和11)年に標津線が開通したことによる駅前の新市街地に移転していった。
1938(昭和13)年10月には開厩式が行われ、この軍馬補充部の開設により、軍人当時7名、軍属当時約200名の定住によって、市街地は急速に進展していった。
その後も、1942(昭和17)年に計根別駅周辺で飛行場建設が行われ、1943(昭和18)年西春別に計根別第四飛行場のい建設と、部落内の再三の立ち退き命令に従うばかりであった。
しかし、1944(昭和19)年秋、戦争における軍馬の占める位置が低下したこともあり軍馬補充部は廃止され、西春別市街地も活気を失っていったが、戦後の入植が劇的に増えたことと、西春別飛行場が米軍基地になるもその後自衛隊に移行する。
1968(昭和43)年には明治乳業西春別工場の開設と、現在は別海町酪農の一大拠点としての役割を担っている。

碑文
 昭和四年春 残雪を踏み 百三十九戸が この地に入植 開拓の鍬を振う 柏樹 うっそうたる 人
跡未踏の昿野を開拓し この土地に育つ者 柏樹の如く 強く たくましく あれとの先人達の願いに
より 地名 柏野 と名付けられたりという 昭和七年に於ける 大凶作対策原野農民大会 も柏野小
学校を会場として開催せられ この大会に於ける 建策により 主畜農業への転換が計られ 現在の酪
農繁栄の基礎がこゝに確立したものなり。
現在 戸数 三十三戸 乳牛千六百有数頭を数える酪農郷となる
茲に開基五十周年を迎え 先人達の労苦を偲び その偉業を讃え之を後世まで傳える為 こゝに記念碑
を建立する
氏名は載せません。
昭和五十三年九月吉日建立
柏野五十周年記念碑期成会


1593(文禄2)年、蠣崎慶広、豊富秀吉に謁見し封彊禁制の朱印の書を得て蝦夷の島主と認められる。
1599(慶長4)年、慶広、蠣崎氏を松前氏に改め徳川家康に謁見する。
1604(慶長9)年、慶広、徳川家康に謁見し黒印の制書を得て、さらに強力な統治権を握る。
1624〜1643(寛永年間)年、松前藩が厚岸場所を開設し、運上屋を設ける。
1644(正保元)年、幕府が松前藩の領地図を基に、北方領土を含む「正保御国絵図」を作成。
1701(元禄14)年、厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1754(宝暦4)年、和船が初めて納沙布水道をの難所を越え国後場所を開設する。
1774(安永3)年、霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害する。
1785(天明5)年、最上徳内、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが西別に上陸し、根室湾に越冬する。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は根室、国後場所を罷免される。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛、国後・択捉島間に航路を開く。幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明東えぞ地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る。幕府道路を開削し、野付と厚別に通行屋できる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。7月江戸よりの探検船凌風丸忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。
1810(文化7)年、高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811(文化8)年、6月露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送する。
1812(文化9)年、根室場所を材木屋七郎右エ門の請負となる。国後場所は米屋藤兵衛が請け負う。野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留される。
1815(文化12)年、高田屋金兵衛場所請負となる。
1816(文化13)年、根室場所を高田屋喜兵衛、伊達林右エ門、栖原半助、亀屋武兵衛の共同請負となる。
1818(文政元)年、根室場所を高田屋単独の請負となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。
1831(天保2)年、高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。
1839(天保10)年、山田文右衛門場所請負となる。
1843(天保14)年、3月根室国地方に大津波あり。
1845(弘化2)年、白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。
1849(嘉永2)年、根室場所藤野喜兵衛の請負となる。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1857(安政4)年、加賀屋伝蔵野付半島オンネニクルにて畑作をする。
1859(安政6)年、11月別海は、西別川を境に南を仙台藩、北を会津藩領地とする。
1865(慶応元)年、山田屋寿兵衛漁場請負となる。
1869(明治2)年、8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し、漁場持と改称。10月根室開拓使に出張所を設け、根室、野付、花咲三郡を所轄。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。
1870(明治3)年、1月野付村に44人団体移住する。10月別海駅逓を藤野により取扱われる。
1871(明治4)年、諸藩分領が廃止され、開拓使に帰属される。
1872(明治5)年、3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。本別海の部落形成が始まる。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1875(明治8)年、樺太千島交換条約成立。シュムシュ島からウルップ島までの18島の千島列島が日本領となる。5月村名は全て本字使用となる。
1876(明治9)年、9月走古譚村が発足する。
1879(明治12)年、7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。
1880(明治13)年、根室支庁管下、根室、厚岸、網走、振別の四郡役所が設けられる。
1881(明治14)年、遠太に駅逓所設置される。
1882(明治15)年、2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。
1885(明治18)年、3月春別に駅逓所を開設、取扱人に玉熊重吉となる。
1886(明治19)年、1月北海道庁を設置。野付郡が根室支庁の管轄となる。西別村ヤマカシムイで佐々木忠太郎農耕始める。8月道庁技師内田瀞ら15名によって根室原野の調査を行う。12月野付郡は根室外九郡役所の管轄下となる。
1887(明治20)年、尾岱沼に定住者が出始める。
1890(明治23)年、根室、別海、羅臼間の定期航路が開かれる。
1896(明治29)年、西別原野に畠沢石太郎、渡辺仁太郎が入植する。
1897(明治30)年、11月郡役所が廃止され、根室支庁の管轄となる。
1906(明治39)年、12月和田村管轄の厚別村を編入し別海外5ヶ村戸長役場と改める。
1910(明治43)年、9月奥行臼に駅逓所を設置する。馬3頭与えられた。
1911(明治44)年、西別原野に畑中団体33戸、133人入植する。
1917(大正6)年、4月西別駅逓所を開設し、取扱人を相山虎次郎とする。風蓮原野に斉藤栄六が入植する。
1918(大正7)年、奥行臼駅逓の一部を改築。
1921(大正10)年、10月風蓮原野に駅逓所を開設し、取扱人を早坂善次とする。
1923(大正12)年、1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。根室郡と野付郡の境界を風蓮湖口の中央とする。標津郡と野付郡の境界はトーポロ川とする。
1924(大正13)年、10月中春別に駅逓所設置される。厚床〜西別間に殖民軌道敷設され、西別駅が開設。
1925(大正14)年、5月厚床〜西別間に殖民軌道運転開始。
1929(昭和4)年、10月西別〜中西別間に軌道敷設される。
1930(昭和5)年、4月中西別駅逓所開設される。5月上春別駅逓所開設される。6月奥行臼駅逓廃止。
1931(昭和6)年、10月西春別駅逓所開設される。西別神社建立される。
1933(昭和8)年、12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。
1934(昭和9)年、10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転する。10月西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。。11月殖民軌道上春別線開通。野付半島一帯の道立公園認定を申請。
1936(昭和11)年、10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。殖民軌道中春別線開通。
1937(昭和12)年、10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。
1943(昭和18)年、5月西春別飛行場の建設が着手される。
1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦。その後ソ連軍が北方四島を不法占拠する。引揚者454戸3302人が開拓移民として入植する。
1947(昭和22)年、5月地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。
1953(昭和28)年、12月中標津・別海が町村境界を決める。野付半島に灯台が設置される。
1955(昭和30)年、4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。
1962(昭和37)年、12月野付風蓮道立自然公園に指定される。
1970(昭和45)年、簡易軌道奥行臼〜上風蓮間廃止となる。
1971(昭和46)年、4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。町営バスの路線運行開始。
1972(昭和47)年、1月区画整理による新字名番地が施行される。
1976(昭和51)年、12月西別駅を別海駅に改称し、駅舎を新築する。
1978(昭和53)年、10月別海町開基百年記念式典挙行。
1981(昭和56)年、4月文化センター郷土資料館開館する。
1982(昭和57)年、11月奥行臼駅逓が、別海町文化財に指定される。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
1989(平成元)年、4月標津線全線廃止し、バス転換となる。
1993(平成5)年、4月別海町郷土資料館オープン。
1994(平成6)年、6月北海道指定文化財に奥行臼駅逓指定される。
2010(平成22)年、4月根室支庁が廃止され、根室振興局の管轄となる。
2011(平成23)年、9月「旧奥行臼駅逓所」の名称で、国の史跡に指定される。
2014(平成26)年、保存・修繕作業に伴い、一時閉鎖、2018(平成30)年にリニューアル予定。
別海町百年史別冊付録、別海町三十年史参考

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