純の番屋住所 目梨郡羅臼町礼文町2−8TEL 0153-87-5667 営業時間 10時〜16時 定休日 不定休、11月〜4月まで冬期休業 知床羅臼町観光協会 (有)舟木商店 目梨の由来はアイヌ語の「メナシ」(東方または東隅)で、知床と北方領土を含む一帯を指していたようであり、松浦武四郎は「女那志」と記した。 羅臼の由来は、アイヌ語の「ラウシ」(低いところ・獣の骨のあるところ)からで、この一帯はアイヌの狩猟地であった。羅牛、良牛とも古文書にもみられる。 礼文町の由来は、「ポンヌイ」(小さな入り江)礼文町の一部。礼文知(レブンシラズ)が字名改正により礼文町となった。「レブンシララ」(沖に波かぶりの岩あるところ)。江戸時代から明治時代の地図には「ホロムイ」とあり、松浦武四郎が著した知床日誌でも「ホロムイ」とある。礼文町全体が大きな入り江になっているが、今は使われていない地名である。 目梨郡羅臼町本町30番1(国道334号と国道335の起点)から国道335号線を標津町方向に約600mほどの側道を左折してすぐ。道の駅 知床・らうすからすぐそば。 ドラマ「北の国から」2002遺言では、富良野を飛び出し羅臼が舞台となった。 当時、「純の番屋」は道道87号知床公園羅臼線の終点、相泊地区から浜辺を20分ほど歩いた場所にあった。この番屋は廃屋ではなく実際に使われ、浜辺には昆布漁の昆布干し用の砂利が敷き詰められている場所でもあるカムユンベの番屋だ。 そこを観光客が入って行って漁の邪魔をしたりトラブルになったりした事があったそうで、もしそこまで行くなら漁師さんの指示は厳守の事、番屋は外見を遠くから見るだけで入れない。他にも海沿いには番屋が沢山あるので邪魔にならないように。 そこで羅臼町観光協会がボランティアを募って市街地に、本物の設計図を元に番屋とほとんど同じ作りのレプリカを建設。2005(平成17)6月リニューアルオープンした。 内部は地元の道の駅 舟木商店直営の食堂をオープンさせた。店の前では、北の国からの曲がエンドレスで流れているのはマニアならたまらないだろう。 目の前に広がる根室海峡、天気がよければ国後島を眺めながら食事ができるだろう。新鮮な海の幸を使った料理はここでしか味わえない。定食や海鮮丼のほか、好みの魚介を厨房で焼いて出してくれる。 松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日。 江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。 蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。 1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。 1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。 これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。 個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。 知床日誌とは、1858(安政5)年4月27日〜5月8日(旧暦)に根室を出発して、知床半島をまわり、斜里まで旅した行路を記したものである。 地名や山、川などの名前と由来が詳しく書かれ、当時のアイヌ人がどんな生活をしていたかをかいま見ることのできる記述もある。 北の国からとは、1981(昭和56)年にフジテレビで放送が開始され、2002(平成14)年まで放送されたテレビドラマ。 東京から故郷の北海道に帰郷し、大自然の中で暮らす一家の姿を描いたもので、脚本は倉本聰。主題歌の作曲・スキャットは、さだまさし。 このおかげで、富良野は北海道の一大観光名所となり、今では北の国から資料館が富良野駅の近くにある。 国道335号とは、目梨郡羅臼町から標津郡標津町に至る一般国道で、総距離は42.4km。 道道87号知床公園羅臼線とは、目梨郡羅臼町内を結ぶ主要道道で、総距離は24.5km。 大きな地図で見る |