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北方原生花園

住所 根室市豊里

根室市観光協会

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
豊里の由来は、1968(昭和43)年1月歯舞地区の地番改正し、引臼・婦羅理・取戸石を廃し、豊里・双沖が誕生する。元は根室市大字歯舞村・珸瑤瑁村の各一部だった。ハボマイ(ヱ)・サンコタン・ヨーネップ・ノツカマップ・トサップ・ポンオンニオブ・ゴヨウマイ・珸瑤瑁(コヨマエは江戸期から見られる地名)の一部から成立。由来はアイヌ語では無いようだがいきさつは分からなかった。
道道35号根室半島線沿いにあり、納沙布望郷の岬公園前から根室市街地方向に約10.4km左手。駐車帯があるので分かりやすいだろう。

道道35号線沿いにある花園で、広さ約75ha(0.75平方km)もあり、春から夏に掛けにかけて様々な花が見れるが、原生花園そばにあるオンネップ川付近では、ヒオウギアヤメをはじめクロユリ・ミツガワシワ・エゾカンゾウ・トウゲブキ・ミズバショウハマナスなど約30種類の美しい草花が咲く。6月下旬から7月中旬に咲き乱れるヒオウギアヤメが有名だそうだ。
最初に行った時は2006(平成18)年頃だったと思う(記憶があいまい)。時期的に花の見頃ではなく、当時は原生花園内で馬を放牧していて、原生花園の入口の扉は閉じられているが、馬が外に出ないようにしただけで自由に中に入ることができた。入ろうとした時入口に沢山の馬が居て入れず、入ったら馬の糞だらけだったのを思い出す。当時から木道が整備されていたが入るには勇気が必要だったのは言うまでもなく。

2019(令和元)年再訪してきました。馬の姿は見えず、フンも無く快適だった。


道路沿いにある独特の形状をした低い木々は、ミズナラの風衝林。半島独特の強風、雪などに晒され低く這うように曲がっていったものが群落し、1999(平成11)年根室市の天然記念物に指定。一番風に当たる木は強風などにより高さ1m以下になるが、風下に行くほど樹高が高くなる。正式名は「カシワモドキ」という木である。

豊里は、1968(昭和43)年1月歯舞地区の地番改正し、引臼・婦羅理・取戸石を廃し、豊里・双沖が誕生する。元は根室市大字歯舞村・珸瑤瑁村の各一部だった。ハボマイ(ヱ)・サンコタン・ヨーネップ・ノツカマップ・トサップ・ポンオンニオブ・ゴヨウマイ・珸瑤瑁(コヨマエは江戸期から見られる地名)。珸瑤瑁は根室地方南東端、根室半島の先端のことを指し、納沙布岬と歯舞諸島の間は珸瑤瑁水道(海峡)と呼ばれる。ハボマヱは江戸期から見られる地名。地内のサンコタン付近にあるトーサムポロ沼は南北に細長く、周囲約5kmの海跡湖。由来は「ト・サム・ポル」(沼の傍にある洞窟)昔からシジミ・アサリ・カキなどが豊富に採れたようである。1977(昭和52)年にはトーサムポロ沼で700平方mをアサリ漁場耕耘整地を行う。翌年からは鮭の稚魚を放流するなど貴重な沼となっている。
 1789(寛政元)年蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こった。その後蜂起軍をなだめ説得が成功し、国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降し、反乱参加者をノカマップ(野釜布、現・根室市東部)に護送した。報告を受けた松前藩も鎮圧に赴き、7月264人の鎮圧隊をノカマップに上陸させた。1794(寛政6)年運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。1843(天保14)年3月根室国地方に大津波あり。46人死亡、家屋倒壊75戸、船61隻被害受ける。1845(弘化2)年松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人和賀屋孫兵衛の手代を名乗って函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と探検した。
 1872(明治5)年3月根室管内の村名を定める。ゴヨマイ村が発足。1875(明治8)年3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改める。大字を附する。珸瑤瑁村に変更。1876(明治9)年花咲郡のうち歯舞村発足。1877(明治10)年6月納沙布灯標を灯台に改築する。光線五里に達する。この頃から歯舞に移住者が増えていく。岩手の出身者が多かった。1894(明治27)年3月大地震が起こる。被害戸数877戸、負傷者は4名。1895(明治28)年10月根室大火が起こり8町を焼き、焼失戸数は889戸となる。1897(明治30)年12月根室で大火、8町に延焼し焼失戸数662戸となる。1900(明治33)年7月根室町に一級町村制を施行する。1901(明治34)年11月友知外五村戸長役場を歯舞村に移し、歯舞外五村戸長役場と改める。1906(明治39)年歯舞神社を創建する。1909(明治42)年8月歯舞に駅逓を置く。
 1912(大正元)年12月珸瑤瑁(ごようまい・納沙布岬にほど近い)の海岸から「横死七十一人之墓」を引きあげる。1915(大正4)年4月歯舞外五村に二級町村制施行し歯舞村役場を置き、歯舞・友知・沖根婦(現・根室市双沖)・沖根辺(現・根室市双沖)・婦羅理(現・根室市歯舞)・珸瑤瑁(現・根室市珸瑤瑁)を大字とする。この頃は昆布生産が主流だった。1917(大正6)年歯舞村では馬245頭飼育している。牧場の経営は4軒。1923(大正12)年珸瑤瑁神社を建立する。
 1927(昭和2)年歯舞・花咲・落石港の修築工事着工する。許可移民が根室原野に大挙して入地する。1929(昭和4)年10月根室拓殖鉄道会社の根室〜婦羅理(現・根室市歯舞)間が開通する。12月婦羅理〜歯舞間延伸開業する。1930(昭和5)年11月納沙布灯台をコンクリート造りに改築する。1945(昭和20)年根室市街が米軍機により空襲され、死者199人、行方不明者170人、市街中心部の大半が焼失する。8月ソ連軍が択捉島に上陸する。9月には千島・歯舞島が占拠される。米軍駐留軍が公会堂に進駐する。9月ソ連が千島の領有を宣言し、南千島、歯舞諸島から脱出者が相次ぐ。11月北方水域にマッカーサー・ライン設定される。稲茂尻(色丹島)で島民がソ連軍に射殺される。国後島より脱出した漁船が根室沖で沈没し、18人死亡する。戦災者・引揚者のバラック建設始まる。1947(昭和22)年7月道議会が歯舞諸島・択捉島・国後島の日本復帰の請願決議可決する。8月北方領土復帰根室国民大会開催する。北方島民残留者の本国引揚げが始まる。11月歯舞地区の電化が進む。1959(昭和34)年4月歯舞村が根室市と合併する。根室市の大字となる。根室拓殖鉄道が廃止となる。1968(昭和43)年1月歯舞地区の地番改正し、引臼・婦羅理・取戸石を廃し、豊里・双沖が誕生する。8月根室市開基百年記念式典挙行。1970(昭和45)年豊里の世帯数は17戸、98人。1972(昭和47)年2月納沙布岬に「望郷の家」が竣工する。1978(昭和53)年8月望郷の岬公園命名式挙行。1980(昭和55)年8月納沙布岬で北方館の落成式挙行。シンボル像の起工式行う。1981(昭和56)年9月納沙布岬に「四島のかけ橋」完成し、シンボル像点火記念式典挙行。1983(昭和58)年4月「根室半島チャシ跡群」が国の文化財の指定を受ける。1987(昭和62)年7月納沙布岬に「平和の塔」完成する。
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