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北辺防衛会津藩士顕彰碑

住所 標津郡標津町茶志骨

標津町観光協会

標津町の由来は、アイヌ語の「シペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関しては標津町史にも載ってはいない。
茶志骨は、アイヌ語の「チャシ・コツ」で址のこと。江戸後期から見える地名。1875(明治8)年からは茶志骨村と表記している。
国道244号線から道道950号野付風蓮公園線に入り約6.1kmほど左手。

道路脇に石碑があり、その傍には會(会津藩)の旗印が揺れていた。春になると墓の周りに会津藩の旗が毎年立てられ献花がされ周りの草もきれいに刈られている。
当時、標津町は幕府の北方警備政策により会津藩領になっていた。1855(安政2)年4月14日、幕府は仙台、秋田、南部、津軽、松前の五藩に蝦夷地の警備を命じたが、1859(安政6)年9月に幕府は松前藩を除き、新たに会津、庄内の二藩を加え、蝦夷地開発守備のため分割して領地を与えることにした。
これにより、標津、斜里、紋別(現・網走を除く別海町西別〜紋別市あたりまで)を会津藩領とし、網走は箱館奉行の支配地だったが警備は会津藩が行った。拠点は国境に近い標津に置かれた。
翌年、1860(万延元)年には藩吏である、郡奉行樋口佐多助を筆頭とする藩士二十数名を標津に派遣して3月に書類の引継ぎを終り、4月現地の引継ぎを終えたあと、現地の漁場番人やアイヌを集め各種の取り決めごとを申し渡す「ヲムシャ」を行った。
1861(文久元)年中老田中鉄之丞に新領地を検分させると同時に、箱館郊外に戸切地御蔵屋敷を建て、1862(文久2)年標津へ陣屋を建設するため準備を進め、1863(文久3)年ホニコイ(現・標津町望ケ丘森林公園付近)に陣屋6棟が完成し、二百余名が守備についた。
その警備の中で-20℃以下になる厳しい気候風土や病気などが原因で多くの藩士がこの地で命を落とした。この碑は警備の為に故郷を離れ異郷の地で亡くなった藩士を顕彰するために建てられたもので、この碑の隣には墓石もあり藩士とその家族のものだという。その時の詳細は御陣屋御造営日記に書かれている。
稲村兼久とその孫と、佐藤某の名が刻まれたこの墓石はには「文久三年」の年号も刻まれている。
標津町と自衛隊によって顕彰碑が1968(昭和43)年に建立され、1985(昭和60)年標津町の文化財に指定された。この墓石とともに当時の歴史を伝える資料が、ポー川史跡自然公園に「標津番屋屏風図」がある。
この図は、会津藩領時代当時の標津市街地の様子を描いたもので大変貴重なものである。
 ちなみに陣屋に関しては、図面が未発見なこともあり正確な位置がどこなのかは未だ不明とのこと。ホニコイという地が現在の楠温泉(標津郡標津町南8条)あたりにあったことと、1982(昭和57)年に行われたホニコイ地区での発掘では、望ケ丘森林公園内のチャシ跡周辺で、チャシ跡よりも新しい柱跡が発見されたこともあり、このあたりにあったのだろうというのは確かだという。

碑文
幕末 北辺の防衛急を告げ内も
又新時代へ胎動を始め内外は激
動を続ける この頃当地方は会
津藩警備の地となり 万延元年
藩兵を派遣し 文久二年ホニコ
イに陣屋を造営して新領地代官
以下二百余名が守備につく
異郷の厳しい気候風土は耐え難
く慶応三年まで多くの藩士がこ
の地にねむる
藩命とはいえ えぞ地守備に挺
身し尊い命を捧げた士こそ 義
勇に奉じ 国難を救った誉れあ
る武人である
平和を受けついだ吾等 ここに
先人の功を讃える
陸上自衛隊の協力を得
昭和四十三年十月建立 標津町

1867(慶応3)年10月江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許したのが大政奉還であり、北辺の警備についていた藩士もこの後に引き上げたのではないかと標津町史に書いてあるが詳細は分からない。

1700(元禄13)年、元禄御国絵図を幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初めとなる。
1701(元禄14)年、厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1774(安永3)年、霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害する。
1785(天明5)年、幕府派遣の蝦夷地分検隊標津を通過。この時ツキノエ隊長に会いたがるも松前藩士に阻止される。
1786(天明6)年、9月夜幕府派遣の神通丸は標津沖で五社丸は西別沖で暴風のため沈没。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1799(寛政11)年、幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明東えぞ地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る野付に通行屋できる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。7月江戸よりの探検船凌風丸忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1804(文化元)年、エトロフ島で始めて越冬した松田仁三郎は、帰路漂流し標津へ上陸し二日逗留。
1806(文化3)年、斜里越道路、標津〜斜里間37里余り修理。
1810(文化7)年、高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811(文化8)年、6月露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送する。
1812(文化9)年、野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留される。
1815(文化12)年、高田屋金兵衛場所請負となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。
1831(天保2)年、高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。
1839(天保10)年、山田文右衛門場所請負となる。
1843(天保14)年、3月根室国地方に大津波あり。
1845(弘化2)年、白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。
1849(嘉永2)年、藤野喜兵衛の請負となる。始めて「標津場所」の名称を用いる。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。
1859(安政6)年、11月会津藩領地となる。
1862(文久2)年、藤野を免じ、山寺権次、吉川次郎助に標津場所を経営する。
1864(元治元)年、字ホニコイに会津陣屋を建設。
1865(慶応元)年、山田屋寿兵衛漁場請負となる。
1869(明治2)年、8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し、漁場持と改称。10月根室開拓使に出張所を設ける。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。熊本藩支配となる。
1870(明治3)年、3月人馬継立所(駅逓の前身)を設け、継立の順序を定む。5月佐賀藩支配となる。小林重吉漁場持となる。
1871(明治4)年、千島三郎、鈴木佐吉漁場持となる。5月標津、目梨2郡を仙台藩支配とする。8月別海村より茶志骨に至る1里余の新道開削を藤野喜兵衛に請負わす。
1872(明治5)年、藤野伊兵衛、標津、目梨両郡の漁場持となる。4月標津、目梨両郡戸長に上林藤右衛門任命。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。標津、目梨を仙台県より請取り、根室支庁管轄とする。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1874(明治7)年、9月開拓使雇ヘント・ライマン地質調査のため標津へ一泊、翌日養老牛温泉を視察して斜里へ至る。
1875(明治8)年、3月町村名を従来の仮名であったものを本字に改める。標津郡(標津村、伊茶仁村)目梨郡(忠類村、薫別村、植別村)。6月野付出張所を廃し、支庁直轄となる。
1877(明治10)年、漁場持を廃し一般希望者に解放す。標津に村役場をおく。
1879(明治12)年、6月各郡に戸長を配置。7月根室郡役所の管轄となる。戸長役場を標津に設け、標津、伊茶仁、2ケ村を統治。標津町の開基となる。
1880(明治13)年、3月忠類川に渡船場を設く。取扱人小桜長蔵。6月標津郡、目梨郡へ戸長1人配置。標津、目梨両郡戸長役場と被称、標津村、伊茶仁村、薫別村、崎無異村、忠類村、植別村の6ヶ村統治。忠類より薫別に至る道路開く。
1882(明治15)年、2月開拓使根室支庁を廃し、根室県をおく。
1884(明治17)年、10月野付郡茶志骨村を編入。標津外6ヶ村戸長役場となる。
1885(明治18)年、新斜里山道(国道244号線)開削する。9月留辺斯駅逓所設置。遠藤勇馬ホニコイに入植する。
1886(明治19)年、1月3県1局を廃し北海道庁を設置。標津は根室支庁管轄となる。6月忠類川交流ソギシマップにて吉田金次郎が油井発見。
1896(明治29)年、9月糸櫛別駅逓所設置し取り扱い人を谷村龍之進とする。
1897(明治30)年、鈴木鉄之助が川北温泉を開発する。10月勅令を以て従来の郡区役所を廃し、19支庁となる。
1900(明治33)年、9月標津神社創設。
1901(明治34)年、植別村を分割。12月標津に駅逓をおく(宮嶋旅館)。
1903(明治36)年、7月薫別駅逓所開設、取扱人を小林松三郎とする。
1913(大正2)年、4月古多糠に越後団体入地(藤巻一治団長以下23戸)
1914(大正3)年、松実孝太郎等奈良団体川北へ入植。
1916(大正5)年、8月西村武重養老牛温泉の開発に着手。
1919(大正8)年、標津〜中標津間開削道路完成。武佐駅逓所開設、取扱人を伊藤繁喜とする。
1921(大正10)年、厚床〜中標津間道路開通。上標津駅逓所開設し取扱人を佐藤儀七とする。
1922(大正11)年、計根別駅逓所開設し取扱人を香川良雄とする。
1923(大正12)年、4月二級町村制が施行、標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。
1924(大正13)年、厚床〜中標津間植民軌道敷設、翌年運転開始。
1926(昭和元)年、12月標津〜中標津間拓殖軌道開通。翌年より運用開始。中標津〜計根別間に軌道敷設。
1928(昭和3)年、上標津地区に77戸入植。
1929(昭和4)年、8月字の名称改正。養老牛地区に95戸入植。中標津に火力発電による点灯。
1930(昭和5)年、3月標津市街の一部中標津火力発電により点灯。
1933(昭和8)年、10月日本硫黄株式会社が武佐鉱山の採掘に着手、事務所を川北におく。10月標津線の西別〜厚床間鉄道開通。
1934(昭和9)年、10月西別〜中標津間鉄道開通。
1936(昭和11)年、10月標茶、計根別間鉄道開通。
1937(昭和12)年、10月計根別、根室標津間鉄道開通し、標津線全通する。根北線鉄道起工。殖民軌道廃止。
1938(昭和13)年、武佐鉱山試験精錬をはじめる。
1940(昭和15)年、根北線鉄道敷設中止。
1943(昭和18)年、中標津飛行場できる。
1946(昭和21)年、7月標津村の一部を分割し、中標津村とする。
1949(昭和24)年、12月川北温泉療養所開設。
1953(昭和28)年、1月根北線現地測量班来村。
1958(昭和33)年、1月町制施行標津町となる。標津町制施行記念式典挙行。
1962(昭和37)年、12月野付、風蓮道立自然公園指定。
1963(昭和38)年、8月川北温泉湯量調査を行う(地下資源調査)。
1968(昭和43)年、9月標津漁港開港式。10月29日「北辺防衛会津藩士顕彰碑」除幕式。
1972(昭和47)年、8月川北温泉町民保養所完成。
1979(昭和54)年、3月伊茶仁カリカリウス遺跡、標津湿原が国の指定を受け、公園整備始まる。4月標津町百年記念式典挙行。12月北方領土館オープン。
1980(昭和55)年、1月金山スキー場オープン。3月標津町歴史民俗資料館落成。
1980(昭和55)年、9月ポー川史跡自然公園オープン。
1981(昭和56)年、1月金山峡温泉せせらぎの宿オープン。
1983(昭和58)年、11月忠類バイパス完成。
1989(平成1)年、4月JR標津線廃止、標津線代替バス運行。
1991(平成3)年、9月標津サーモンパークオープン。
標津町史、標津町史第二巻参考


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