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細谷徹之助歌碑

住所 芦別市旭町油谷

芦別市

芦別市の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
旭町油谷の由来は、古くからペンケ幌内、磐の沢と呼ばれていた。1947(昭和22)年、油谷鉱業株式会社が磐の沢に芦別炭鉱を開鉱したことに伴い企業名を冠せた旭町油谷と呼ばれ、1955(昭和30)年の字名改正により正式地名となった。
道の駅 スタープラザ芦別がある国道38号線国道452号線の交差点からカナディアンワールド公園方向に約6.3kmほどに看板があるので、右折し約400mほど。

芦別温泉スターライトホテル駐車場そばにあるのが細谷徹之助歌碑で、1979(昭和54)年に建立された。

宿の背のこぶしは
白き花もてり
峡(かい)鳴き渡る
今朝の郭公
徹之助

碑文
細谷徹之助氏は芦別に生まれ
産業自治文化等に多くの
事績あり特に芦別市長当時
健民センター芦別温泉の開発
に力を注ぎ今日の隆盛を築いた
 これを記念し歌人としても
著名な氏の自詠自筆一首を
刻んで歌碑に遺しその功を
後世に伝える
昭和五十四年十一月
細谷徹之助歌碑建立期成会

旭町油谷は、1955(昭和30)年9月字名変更し、幌内地区の一部が旭町・旭町油谷となる。元は字幌内の一部。成立時の世帯数は928戸、4969人。油谷鉱業により戦後に石炭採掘が本格化し、盛況となったが1965(昭和40)年3月油谷炭鉱閉山し、人口が激減した。後に小中学校付近に2カ所の鉱泉に注目し。市営の温泉施設である健民センター芦別温泉を1972(昭和47)年10月開設。その後国民保養温泉地の指定を受けた。
 幌内は、1939(昭和14)年10月部落名変更し、幌内となった。もとは芦別村の一部。かつてはホロナイ・幌内・ペンケ幌内と呼ばれた。成立時の世帯数は85戸、530人。1857(安政4)年5月松浦武四郎石狩川を遡り空知太に達する。5月さらに遡り上川盆地に至る。石狩川を下り新十津川のトップ(徳富)に宿泊する。6月空知川を遡り芦別のパンケホロナイ川合流点に宿泊する。オチヌンベ川合流点に宿泊する。6月さらに遡り空知大滝に達する。空知川を下り空知太に戻る。のちに著した「丁巳日誌」にはホロナイと記載があるが住人の記載はない。 1889(明治22)年空知川支流ペンケホロナイ川、パンケホロナイ川、オチノンベに砂金採取者多数来る。1892(明治25)年道庁地理課の山岸信介他5名が空知川沿岸の入植地調査の為芦別に入る。1894(明治27)年中川一介がペンケ御料地を除く全殖民地の貸下げを受け中川農場とし、田中某が管理した。1895(明治28)年武市農場が野花南にて国有地の貸下げを受ける。1896(明治29)年2月土佐から堅田喜之助ら野花南に入植する。下班渓〜野花南の仮道路開削する。1897(明治30)年7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。赤平〜野花南間の道路開削する。野花南の武市農場を北光社農場と変更する。札幌の宮川伊之助、下芦別駅逓取り扱い人の竹内勘次郎、パンケに住む長浜善次郎等共同で、当地の未開地7戸分を中川氏から譲り受けて、数人の小作人が入植する。1900(明治33)年6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。1903(明治36)年ペンケに8戸、ホロナイ御料地に40戸が帝室林野局より貸付を受けて入植する。1905(明治38)年野花南御料地開墾開始。1906(明治39)年空知川の南富良野〜石狩川〜江別への丸太流送が最盛期となる。部落名・字名を改称する。鉄道院が下富良野線鉄道の実地踏査行う。1907(明治40)年野花南北光社農場を解放する。1908(明治41)年この頃鮫淵・糠南・京都・ペンケ・富田渡船(私設)があった。
 1913(大正2)年9月部落・字名改正する。11月滝川〜下富良野間に鉄道開通し、釧路本線と称する。(現・根室本線)下芦別、野花南、奔茂尻の各駅設置する。1914(大正3)年6月辺渓特別教習所開設する。12月但馬・野花南・滝ノ上渡船場開設する。1918(大正7)年5月芦別炭鉱(油谷芦別炭鉱の前身)株式会社ペンケホロナイ盤の沢において石炭採掘開始。三又の沢が上班渓から独立する。1919(大正8)年久原鉱業株式会社ペンケ炭鉱を開鉱する。1920(大正9)年芦別炭鉱株式会社、下芦別〜盤の沢間に軽便鉄道を敷設。三菱鉱業株式会社第二坑・第三坑に至る専用道路4km整備する。1921(大正10)年久原鉱業は採掘中止する。1923(大正12)年4月一級町村制施行。6月三菱鉱業が芦別炭砿会社の専用鉄道下芦別駅から8kmを買収する。辺渓幌内鉱区の掘削開始する。部落名字名改正する。1925(大正14)年、三菱鉱業が芦別炭鉱を買収経営する。1926(大正15)年辺渓特別教習所が辺渓小学校として独立する。
 1927(昭和2)年久原鉱業廃業する。1931(昭和6)年5月融雪増水により空知川が氾濫し、開村以来最大の被害となる。1932(昭和7)年9月三菱鉱業業界不況のため第一坑と第五坑を閉鎖する。1933(昭和8)年9月三菱鉱業不況のため上芦別炭鉱休山。1936(昭和11)年野花南発電所付近を芦別村立公園に指定する。1939(昭和14)年10月部落名変更。山崎幸輔が東芦別炭砿株式会社(明治鉱業(株)の前身)設立する。1940(昭和15)年字名・地番改正する。1941(昭和16)年4月町制施行。1943(昭和18)年久原鉱業廃業跡地を買収し、株式会社油谷鉱業所の所有となった。 1944(昭和19)年11月明治鉱業、東芦別炭鉱を買収する。三菱鉱業株式会社幌内事業区の香の沢ボーリング跡から湧き出る水で塩の製造を行う。1946(昭和21)年幌内地区に20戸入植する。その後も引揚者の入植が続く。1947(昭和22)年4月油谷芦別炭鉱開抗。三菱鉱業事業再開。三井黄金抗開鉱。1948(昭和23)年旭小学校油谷分校開設する。1953(昭和28)年4月市制施行により「芦別市」幌内となる。10月野花南地区で芦別郷土史研究会の永田繁太郎、戸塚栄氏によって矢野等氏の耕作地内にてアースサークル発見。野花南地区河岸にて平安朝末期の刀を発見する。1954(昭和29)年5月野花南雄アースサークルを札幌短期大学教授河野広道氏を指導者に復元作業を行い調査も実施した。1955(昭和30)年4月富良野芦別道立公園設立。9月字名変更し、幌内地区の一部が旭町・旭町油谷となる。1958(昭和33)年10月芦別美瑛線道路現地調査。1965(昭和40)年3月油谷炭鉱閉山。新野花南隧道開通する。1972(昭和47)年8月ペンケホロナイ川にて砂金採取する。1976(昭和51)年3月芦別市立旭小学校閉校となる。


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