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野花南周堤墓群

住所 芦別市野花南町3250番地(国有地及び矢野等氏所有地)
駐車場は無し、空知川とJR根室本線の間、農地のすぐ脇にあるので、邪魔にならないように注意してほしい。

芦別市

芦別の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
野花南の由来は、アイヌ語の「ノッカ・アン」(仕掛け弓のさわり糸のある所、または糸を置くところ)である。ちなみに、野花南とは、空知川の支流に野花南川があり、かつては、糠南とも書いた。上流にポン野花南川があり、さらに上流に野花南岳905mがあり、北海道内でも広く使われている地名で目立つ地名の割りには、意味がすでにわからなくなった地名と言われている。
国道38号の野花南大橋から芦別方向に約550mほどの交差点に看板があるので左折、約1.2kmをさらに左折し、根室本線の踏切を渡って右折し約400mほど左手。

野花南周堤墓群(のかなんしゅうていぼぐん)と言い、旧名称は野花南環状土籬(のかなんかんじょうどり)。
空知川西岸の河岸段丘上の海抜約120mに位置し、縄文時代後期末(約3000年前)に造られた北海道特有の集団墓地遺跡で、大小2基の周堤墓があり、1953(昭和28)年10月30日に芦別郷土史研究会の永田繁太郎、戸塚栄氏によって矢野等氏の耕作地内にて発見された。
1954(昭和29)年5月8日札幌短期大学教授の河野広道氏を指導者に復原作業を行い、調査も実施した。
このときの調査で約2平方mを発掘。中央部の地下約40cmのところに20〜30cmほどの河原石が数十個敷き詰められており、石以外の出土はなかったという。
この地は、明治末期に矢野孫左衛門が開墾したもので、当時積土は約1mほどあったという。しかし農耕の妨げになるため壊して平らにならしたという。この際大きな石も出たため、住宅の土台にしたり、庭石にしたり空知川の崖から投げ落としたという。発掘調査で出土したものは地表から深く埋まっていたため残っていたようである。
大正時代には植林し放置されていたが、戦後に入って再度農耕地として利用することとなり発見された。
この土籬周辺からは、黒曜石の石器などが耕作時などに採集されている。
1967(昭和42)年には測量調査も行われ、この堤墓群は、北海道中央部では唯一のものであり、大小2基のうち、大きいものは、周堤が比較的良好な状態で保存されており、学術上貴重な遺跡である。
この周堤墓は、千歳市のキウス周堤墓群や、斜里町の朱円環状土籬や標津町の伊茶仁カリカリウス遺跡などに分布していることから、野花南周堤墓群は石狩低地帯と知床半島地域をつなぐものと考えられている。

案内板
北海道指定文化財(平成12年4月14日指定)
史跡 野花南周提墓群
 所在地 芦別市野花南町3256、3257番地
発見、保存、整備の経緯
昭和28年 永田繁太郎、戸塚栄、矢野等らが1号周提墓内で配石を発見
      芦別郷土史研究会創立、1号周提墓中央部で配石14個を確認
昭和29年 河野広道博士を招き初の学術調査を実施、2号周提墓を発掘
昭和37年 8月27日、芦別市指定文化財となる
昭和42年 野村崇により初の測量調査が実施される
平成8年 矢野等が遺跡のある土地を芦別市に寄付する
平成12年 4月14日、北海道指定文化財(史跡)に指定
平成24年 (公財)北海道埋蔵文化財センターが北海道重要遺跡確認
      発掘調査を実施
平成25年 同上の発掘調査を実施後、埋め戻し

周提墓とは
 周提墓は、地面に平面円状の大きな竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に盛って
区画し、竪穴の床面に計画的に複数の墓穴を設けた、縄文時代後期末ころ(約
3000年前)に造られた北海道特有の集団墓地遺跡である。それぞれの墓穴の
上には、墓標として石が配置される場合がある。
 昭和29年、河野広道博士は、この種の遺跡を「環状土籬 (かんじょうどり)」
と命名したが、現在では「周提墓」と呼ぶのが一般的である。道内では芦別市
のほかに、恵庭市、千歳市、苫小牧市、斜里町、標津町に分布していて、中
でも国指定史跡・千歳市キウス周提墓群は、現存する最大規模の周提墓として
知られている。

野花南周提墓群の概要
 1号周提墓は、比較的良好な保存状態にあり、中央部に14個の川原石が配
置されている。おそらく、その直下に墓穴があったと考えられるが、平成25年の
発掘調査では、遺構は確認されなかった。なお、周提墓の立石は、昭和37年
に推定復元されたものである。
 2号周提墓は、農耕のため周提が削平された小規模な周提墓と考えられ、昭
和29年に河野広道博士が中央部の配石下を発掘したが、遺物や遺構は一切出
土しなかったという。
平成25年の発掘調査では、周提墓と認定するに足る情報は得られなかった。
 周提墓内の遺構は確認されていないものの、野花南周提墓群は、北海道中央部
において唯一現存する遺構であり、石狩低地帯から知床半島地域をつなぐ存在
として重要である。

野花南地区は、1955(昭和30)年9月字名変更し、野花南町となる。それ以前は1939(昭和14)年10月部落名変更し、金剛・丸山となる。純農村地帯として発展してきた。アイヌやそれ以前の遺跡なども多く発掘されており、野花南地区だけでも野花南1遺跡・野花南丸谷遺跡・野花南2遺跡・野花南矢野沢遺跡・野花南周堤墓群・野花南3遺跡・野花南堤防遺跡・野花南オチノンベチャシ・野花南オチノンベ遺跡など縄文時代から擦文アイヌ文化期まで幅広い遺跡が存在している。1857(安政4)年5月松浦武四郎石狩川を遡り空知太に達する。5月さらに遡り上川盆地に至る。石狩川を下り新十津川のトップ(徳富)に宿泊する。6月空知川を遡り芦別のパンケホロナイ川合流点に宿泊する。オチヌンベ川合流点に宿泊する。6月さらに遡り空知大滝に達する。空知川を下り空知太に戻る。

 1889(明治22)年空知川支流ペンケホロナイ川、パンケホロナイ川、オチノンベ(落辺)に砂金採取者多数来る。1895(明治28)年2月空知川沿岸原野600区画を貸下げ。武市農場が野花南にて国有地の貸下げを受ける。1896(明治29)年2月土佐から堅田喜之助ら10戸野花南に入植する。下班渓〜野花南の仮道路開削する。加茂神社(後に野花南神社に合祀)建立する。入植した際に、郷里の高知県で信仰していた加茂神社の分霊を祀ったものである。1897(明治30)年7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。赤平〜野花南間の道路開削する。空知川北岸道路開削に着手する。野花南の武市農場を北光社農場と変更する。1898(明治31)年12月野花南に簡易教育所設置する。1899(明治32)年野花南にて片岡栄作が雑貨商を営む。野花南にて大谷源兵衛が2.3坪の水稲試作する。1900(明治33)年6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。7月戸長役場を下芦別37線174号の民家を借り受け開庁する。1901(明治34)年野花南にて造材事業開始。野花南神社建立する。1905(明治38)年野花南御料地開墾開始。1906(明治39)年空知川の南富良野〜石狩川〜江別への丸太流送が最盛期となる。鉄道院が下富良野線鉄道の実地踏査行う。1907(明治40)年2月野花南尋常小学校設置する。芦別〜滝川間の水運が盛んになる。野花南北光社農場を解放する。1908(明治41)年糠南渡船(私設)があった。木材の流送が舟運を妨げて問題となる。大谷派野花南説教所(宣教寺の前身)を開設する。

 1913(大正2)年11月滝川〜下富良野間に鉄道開通し、釧路本線と称する。(現・根室本線)下芦別、野花南、奔茂尻の各駅設置する。野花南駅周辺が発展し、市街地の戸塚竹治・笠井六三郎・川向の中内良吉(いずれも四国出身)が四国の金比羅神社の御札を受けて持ち帰り、笠井氏が大工だったことから丸太で建てたバラックに御札を祀り金比羅神社として祀った。この場所はアイヌのチャシがあった場所と言われているが場所は不明。1914(大正3)年9月野花南神社現在地に移転する。12月但馬・野花南・滝ノ上渡船場開設する。1915(大正4)年8月富士製紙株式会社江別工場に送電するため野花南発電所工事着工する。1917(大正6)年野花南にて養蜂が盛んになる。1918(大正7)年8月野花南発電所操業開始。1920(大正9)年1月下芦別駅〜野花南駅間に上芦別駅を開設。11月野花南水路組合結成する。1921(大正10)年滝川〜根室を根室本線と改称する。1924(大正13)年3月野花南尋常小学校に高等科併置。1926(大正15)年3月飯田龍太郎外有志により矢野沢貯水池設置する。5月野花南土功組合設立する。7月野花南青年訓練所設置。9月野花南市街地に電灯施設完成する。

 1932(昭和7)年10月野花南尋常小学校校舎を改築する。1936(昭和11)年野花南発電所付近を芦別村立公園に指定する。1937(昭和12)年10月野花南にて滝沢ベニヤ工場操業開始。1938(昭和13)年野花南にて新芦別炭鉱、南芦別炭鉱、鈴木炭鉱、丸寿炭鉱開鉱。野花南〜富良野間の道路改修する。1939(昭和14)年10月部落名変更し、金剛・丸山となる。1941(昭和16)年4月町制施行し、芦別町となる。1943(昭和18)年野花南にて明田一郎・犬養源治らが空知川砂利採取事業開始。1946(昭和21)年金剛地区電化となる。1947(昭和22)年2月野花南青年学校は芦別に統合。丸山区電化となる。1948(昭和23)年大谷派野花南説教所が宣教寺と公称する。1951(昭和26)年9月宣教寺は現在地に移転し、本堂を新築する。1952(昭和27)年6月宣教寺(現・芦別市野花南町1014)にて双葉保育園開設する。1953(昭和28)年4月市制施行により「芦別市」誕生する10月野花南地区で芦別郷土史研究会の永田繁太郎、戸塚栄氏によって矢野等氏の耕作地内にてアースサークル発見。野花南地区河岸にて平安朝末期の刀を発見する。1954(昭和29)年5月野花南雄アースサークルを札幌短期大学教授河野広道氏を指導者に復元作業を行い調査も実施した。1955(昭和30)年4月富良野芦別道立公園設立。9月字名変更し、野花南町となる。野花南湖にニジマスを放流する。1960(昭和35)年3月野花南共栄橋(つり橋)完成する。1961(昭和36)年野花南大橋完成する。1962(昭和37)年8月野花南アースサークル(現・野花南周堤墓群)を市文化財に指定する。この頃野花南地区を中心に溜池造田が盛んになる。1963(昭和38)年国道38号線の野花南〜滝里間のトンネル工事着工。1965(昭和40)年3月新野花南隧道開通する。9月芦別〜美瑛間の道路工事着工する。加茂神社・金比羅神社を野花南神社に合祀。この時野花南神社のトタン葺きを行う。11月野花南天狗の沢に電気点く。1970(昭和45)年10月野花南ダム起工式挙行。1971(昭和46)年野花南神社改築する。10月北電新野花南発電所完成し運転開始。1978(昭和53)年農業用「野花南ダム」(丸山ダム)完成。翌年から送水開始。1980(昭和55)年矢野沢溜池を解体する。1983(昭和58)年野花南駅を新築する。1984(昭和59)年第一回大滝まつり開催する。1986(昭和61)年鉄道の切替工事着工する。

 1990(平成2)年野花南小学校校舎落成する。1991(平成3)年10月野花南〜島ノ下間、滝里ダム建設にともなう線路付替を行う。滝里駅廃止となる。1992(平成4)年滝里ダムコンクリート打設開始。野花南農村公園オープン。1993(平成5)年双葉保育園閉園。1995(平成7)年国道38号の新道開通する。1996(平成8)年滝里ダム発電所工事着工する。野花南開基百周年記念式典挙行。1999(平成11)年滝里ダム試験湛水開始。滝里ダムが完成し、滝里発電所が運転を開始する。2000(平成12)年野花南周堤墓群と滝里遺跡の遺物が道文化財に指定される。滝里ダム資料館が開館。2011(平成23)年空知大滝甌穴群が北海道天然記念物に指定される。2013(平成25)年野花南・西芦別小学校が閉校し、上芦別小学校に統合となる。

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