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新城夫婦滝

住所 芦別市新城町 夫婦滝公園

芦別市

芦別市の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
新城の由来は、1901(明治34)年3月河戸寅吉が家族とともに入植。入植当時は上斑渓幌内御料地と呼ばれていたが、長く言いずらいこともあって、当時の入地世話人であった細谷林之助と河戸寅吉が相談をし、生れ故郷の秋田県南秋田郡下新城村(現・秋田県秋田市下新城)の地名を以って1906(明治39)年に新城となった。
旭川と芦別を結ぶ道道4号旭川芦別線新城町郵便局の交差点から滝の案内板に従って約5kmほど。途中から砂利道になるが、滝までの道には何箇所か案内板があるので迷うことはない。悪天候時の訪問はオススメしない。

ここは、夫婦滝公園となっており、国有林に覆われていて、夏でも涼しいが虫が多いので虫よけスプレーがいるだろう。


二つの滝が一つになって流れる姿から、1951(昭和26)、5月、夫婦滝と名付けられた。
落差はおよそ10m。滝の流れの真ん中に大きな岩があり滝身が二つに別れ、再び一つの流れとなったあと小滝がある。
沢に下りて滝を見上げることも出来るが足場は整備されていないので危険と思われる。
夏場は水量が乏しいが、秋の紅葉期は見事な景観で、春夏秋と楽しめる名所であり、春の融雪期では水量も増えて豪快な流れである。
この滝は5月の中旬まで雪の為入ることが出来ないので注意。
公園内には葛西善蔵文学記念碑が建っている。



新城は、1955(昭和30)年9月字名変更し、新城町となった。それ以前は芦別村の一部。かつては上班渓御料地と呼ばれていたが、長く言いずらいこともあって、当時の入地世話人であった細谷林之助と河戸寅吉が相談をし、生れ故郷の秋田県南秋田郡下新城村(現・秋田県秋田市下新城)の地名を以って1906(明治39)年に新城となった。
 1889(明治22)年空知川支流ペンケホロナイ川、パンケホロナイ川、オチノンベに砂金採取者多数来る。1890(明治23)年新城地域が御料地に編入。1897(明治30)年7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。1898(明治31)年から北海道炭礦汽船が当地にて造材事業を行った。1900(明治33)年6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。1901(明治34)年3月上班渓御料地(新城地区)に石川県人の河戸寅吉、家族とともに入植。この頃パンケホロナイ川を使い流送を行っていて、残材整理の流送人夫が沢山おり、アバ(貯水し貯木のための流れを堰き止める提)もあったという。造材事業終了。1902(明治35)年水崎荘平、梶原仁三郎、吉野喜三郎、荒木某がパンケホロナイ川の山際に入地する。1904(明治37)年河戸寅吉、水崎荘平が水田試作する。大鎌重吉、百島伊三郎、伊藤健太郎、高瀬宗吉、枝沢武八郎、田中嘉市らが入地する。1905(明治38)年4月上班渓簡易教育所創立。浄土真宗本願寺派正信寺(現・芦別市新城町248)創建。1906(明治39)年3月新城にて教育所開設し、吉村信正が着任する。4月二級町村制施行する。部落名・字名を改称する。上班渓から御料地が独立し、郷里の名を取って新城とする。さらに部落内を本流、泥川、三線、八線に分け新生「新城」となった。新城は第2部の区域となり部長に細谷林之助就任。成立時の世帯数は70戸、420人。1907(明治40)年9月新城簡易教育所校舎完成する。1909(明治42)年新城小学校設置。用水路が開通する。新城神社拝殿造築する。
 1913(大正2)年9月部落・字名改正する。世帯数167、人口780。新城南組延長潅漑溝組合ができ、用水溝工事に着工する。1914(大正3)年8月新城神社を現在地に奉遷。1917(大正6)年9月新城駅逓所開設し、取扱人は荻原伍助となる。11月常盤〜新城間の道路完成。新城にて横川久蔵が澱粉工場を開設する。1918(大正7)年三又の沢(豊岡)が上班渓から独立する。1919(大正8)年用水溝完成。1920(大正9)年曹洞宗大英寺(現・芦別市新城町233)創建。1923(大正12)年4月一級町村制施行。新城は字上班渓小字新城となる。戸数185戸、1553人。1925(大正14)年御料地の払い下げ行なわれる。
 1933(昭和8)年本流沢上流の扇沢にクローム鉱発見。1936(昭和11)年8月新城駅逓所廃止。昭和クローム鉱業株式会社が新城においてクローム鉱の開発着手。その後開拓が進み、流送は行われなくなり冬季に人力や馬によって行った。1938(昭和13)年新城の昭和クローム鉱は閉鎖する。1941(昭和16)年4月町制施行。新城林道が完成し、木材搬送は次第にトラックに変わっていった。1946(昭和21)年新城地区の一部が電化となる。1947(昭和22)年8月15日、パンケホロナイ川で大洪水発生、死者をだす。外地引揚者の戦後開拓が進められ10数戸が入地した。その後豊岡北三線の17戸が通学交通等で新城に編入となった。新城小学校と改称し中学校を併置。1948(昭和23)年本流水神宮創立。新城地区全域に電燈が灯る。1950(昭和25)年日本鉱山株式会社が新城メノコ沢にて珪石採取事業開始する。北3線(豊岡第4)を新城に編入。1951(昭和26)年5月夫婦滝、碧水峡の名称確定。1953(昭和28)年4月市制施行により「芦別市」誕生する。1955(昭和30)年9月字名変更し、新城町となった。世帯数は301戸、1936人。1956(昭和31)年3月岩切慶二が新城地区の珪石鉱業権を得て採掘する。新城地区にて山火事発生し7920ha焼失する。1957(昭和32)年9月本流用水50周年記念碑建立。1958(昭和33)年9月芦別線の現地調査実施。10月芦別美瑛線道路現地調査。1961(昭和36)年10月岩切慶二が滑石を発見し鉱業権を取得する。1962(昭和37)年2月芦別線の第一工区の芦別〜常磐間(三井黄金入り口)の用地を確保する。1963(昭和38)年3月芦別線の二工区常磐〜新城間の買収交渉が妥結する。11月常磐〜新城間の着工式が行われる。1964(昭和39)年芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事着工する。1967(昭和42)年3月芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事完工する。第三工区の新城〜新城峠間の路盤工事を開始。1968(昭和43)年2月第四工区である新城峠以北の用地買収を一部で開始する。1969(昭和44)年2月夫婦滝の奥で、日の出鉱業滑石の採掘を開始。3月第三工区までの路盤他の工事完成する。工事は芦別〜新城までの路盤工事がほぼ完成し、新城〜納内間の用地も一部が確保されていたが、旭川市内の農家の反対や石炭需要の低下と、沿線予定地の炭鉱が閉山したため計画は、1972(昭和47)年7月予算配分が無くなり工事が凍結。頓挫した。1970(昭和45)年新城地区に簡易水道完成する。1973(昭和48)年9月記念碑が改修される。1976(昭和51)年9月日本流用水溝組合70周年記念式典が行われる。1987(昭和62)年9月水神宮の由来碑建立。
 1993(平成5)年中学校閉校となる。1995(平成7)年新城峠切り下げ「峠公園」着工し翌年完成する。

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