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細谷徹之助歌碑

住所 芦別市上芦別町(上芦別公園内)

芦別市

芦別の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
上芦別の由来は、1900(明治33)年、6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生し、1906(明治39)年、4月二級町村制施行する。この頃から上芦別と芦別市史には書かれているが、1939(昭和14)年、10月部落名変更。このとき部落民の福祉と公園地体の名勝地を願い「富岡(とみがをか)」とするが、一般の人々には上芦別が浸透していたこともあり富岡という名前は消えた。当時芦別は下芦別と言われ、芦別の上流にあることに由来するだろう。
国道38号道道365号上芦別停車場線交差点から上芦別方向に約750m進み、道道567号上芦別停車場野花南湖線をさらに約1.2km直進し、左折すると駐車場。

野花南ダムでできた野花南湖は、1918(大正7)年に富士製紙株式会社が空知川を堰き止め、5100kWの発電を有する調整ダム式発電所によりできた人造湖で、周囲併せて73万9000平方mの広大な水面と土地を含む湖。
1936(昭和11)年には野花南湖周辺が村立公園に指定されそこが現在の「上芦別公園」となっていて、公園一帯が富良野芦別道立自然公園に指定された公園で、湖では以前はカヌーを楽しむことができたようであるが現在は不明、キャンプ場もあるが利用する人は少ないようである。
公園内には、細谷徹之助、西村一平山口青邨などの文学碑があり、この碑は細谷徹之助の歌碑で、建立日は1982(昭和57)年6月。
以前はうぐいす橋のすぐ近くに木板に書かれてあったものだが、2000(平成12)年6月に現在の上芦別公園駐車場そばに移転して石碑に代わった。

碑文
夏深むうぐひす橋の朝露に
群れて餌を待つ水鳥の声 徹之助
 この歌碑は、元芦別市長の細谷徹之助氏が、上芦別公園まつり
三十周年を記念し、昭和五十七年六月二十日木板により、
うぐひす橋の側に建立されたものであったが、年月とともに文字
が消耗剥離してゆくことからこの石碑に写し替えたものである。
平成十二年六月二十日 上芦別公園まつり協賛会
嗣子 細谷将彦

上芦別は、1955(昭和30)年9月字名変更し、上芦別町となった。もとは芦別市富岡と金剛の一部。成立時の世帯数は2529戸、1万3943人。1857(安政4)年5月松浦武四郎石狩川を遡り空知太に達する。5月さらに遡り上川盆地に至る。石狩川を下り新十津川のトップ(徳富)に宿泊する。6月空知川を遡り芦別のパンケホロナイ川合流点に宿泊する。オチヌンベ川合流点に宿泊する。6月さらに遡り空知大滝に達する。空知川を下り空知太に戻る。
 1877(明治10)年開拓使鉱山課数十名が空知川付近の炭質と埋蔵量を調査する。佐藤昌介ら札幌農学校の生徒たちと共に空知川を探検し芦別経由で富良野まで至る。1893(明治26)年山形県人佐藤伝次郎が歌志内からパンケホロナイ(右岸・常磐)に入植、芦別開基の人となる。1895(明治28)年2月空知川沿岸原野600区画を貸下げ。2月京都植民協会農場が上芦別に424町の貸下げ受ける。3月早川仁左衛門・根井清作が富山県人を率いて下芦別に入地。武市農場が野花南にて国有地の貸下げを受ける。1896(明治29)年下班渓〜野花南の仮道路開削する。1897(明治30)年7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。赤平〜野花南間の道路開削する。空知川北岸道路開削に着手する。浄土真宗本願寺派の西京寺(現・上芦別町523−2)創建。1900(明治33)年6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。10月上芦別簡易教育所(後の上芦別小学校)開設する。1905(明治38)年野花南御料地開墾開始。1906(明治39)年4月二級町村制施行する。部落名・字名を改称する。鉄道院が下富良野線鉄道の実地踏査行う。北海道炭鉱鉄道会社が夕張・芦別地区の石炭調査を行う。1909(明治42)年三菱合資会社が空知・芦別・ペンケホロナイ川流域の丘陵地帯・鉄道沿線原野160平方kmの試掘権を設定する。1911(明治44)年2月下富良野線鉄道は8工区に分けて着工する。
 1913(大正2)年10月三菱合資会社(三菱鉱業芦別鉱業所の前身)が石炭の試掘と露頭炭調査する。11月滝川〜下富良野間に鉄道開通し、釧路本線と称する。(現・根室本線)下芦別、野花南、奔茂尻の各駅設置する。1914(大正3)年2月三菱鉱業出炭開始する。1915(大正4)年5月三菱合資会社第一坑開坑する。8月上芦別小学校開校する。1920(大正9)年1月下芦別駅〜野花南駅間に上芦別駅を開設。1921(大正10)年滝川〜根室を根室本線と改称する。1923(大正12)年4月一級町村制施行。部落名字名改正する。
 1932(昭和7)年9月三菱鉱業業界不況のため第一坑と第五坑を閉鎖する。1933(昭和8)年8月上芦別に藤川ベニヤ工場操業開始。9月三菱鉱業不況のため上芦別炭鉱休山。1934(昭和9)年帝室林野局が上芦別駅から芦別川に沿って森林鉄道31.2km敷設する。1935(昭和10)年8月上芦別鉱区を買収し東芦別炭鉱開鉱。1937(昭和12)年明治鉱業索道運転開始する。1939(昭和14)年10月部落名変更。このとき部落民の福祉と公園地体の名勝地を願い「富岡(とみがをか)」とするが、一般の人々には上芦別が浸透していたこともあり富岡という名前は消えた。山崎幸輔が東芦別炭砿株式会社(明治鉱業(株)の前身)設立する。1941(昭和16)年4月町制施行。朝鮮人労働者を石炭採掘のため、三井芦別鉱業所・明治上芦別鉱業所に配置する。1944(昭和19)年11月明治鉱業、東芦別炭鉱を買収する。 1948(昭和23)年6月東芦別小学校開校する。1949(昭和24)年上芦別〜辺渓間の三菱専用鉄道開通する。1951(昭和26)年北菱産業株式会社設立し、石炭開発に着手する。1952(昭和27)年日本ナザレン教団上芦別教会創建。1953(昭和28)年4月市制施行により「芦別市」誕生する。1955(昭和30)年9月字名変更する。上芦別町となる。1956(昭和31)年6月北菱芦別炭鉱が三菱鉱業株式会社の所有する鉱区内に祖鉱区を設けて8月に北菱奥六線沢堅坑を開坑する。12月明治上芦別鉱業所にて坑内自然発火。上芦別の一部に上水道給水開始。1960(昭和35)年4月明治上芦別鉱業所が明治上芦別炭鉱と改称する。5月北菱産業株式会社上芦別抗閉鎖となる。1961(昭和36)年三菱芦別鉱業所を三菱芦別炭鉱と改称する。上芦別営林署の森林軌道撤去。1962(昭和37)年1月明治鉱業坑内で自然発火がおこり、注水埋没することとなる。9月三菱芦別炭鉱下芦別坑閉鎖する。1963(昭和38)年1月明治鉱業所閉山。2月北菱青木沢炭鉱閉山となる。1964(昭和39)年1月三菱芦別鉱にて落盤事故発生し、5名が生き埋めとなり2名死亡。2月三菱鉱業所閉山。3月三菱鉱業芦別鉱業所閉山すると伴い鉱区を譲り受け、北菱芦別炭鉱本坑と改称する。9月三菱芦別炭鉱の閉山に伴い鉄道も廃止された。1970(昭和45)年11月北菱芦別炭鉱は閉山となる。炭鉱の閉山が続き人口の流出が懸念されたが、工業団地の造成などを打ち出し各種企業が入ったこともあり順調に発展していく。1980(昭和55)年上芦別中学校と野花南中学校が統合して啓成中学校開校する。1986(昭和61)年3月東芦別小と上芦別小学校が統合し、4月新生上芦別小学校となる。


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