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空知大滝宿営の地碑

住所 芦別市滝里町
TEL 
芦別市

芦別の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
滝里の由来は、古くはアイヌ語で「ポン・モシリ」(小さい島)と言われ、奔茂尻の漢字があてられた。1913(大正2)年11月滝川〜下富良野間が開業した釧路本線(現・根室本線)の駅名も奔茂尻駅(ぽんもしり)といった。1939(昭和14)年10月部落名変更し、空知大滝の上流域に当たることから「滝里」となった。
国道38号の野花南市街地から富良野方向へ約1.8kmほどを斜めに右折し旧道にはいる。さらに進みアーチ橋を渡り大滝橋を渡ってすぐに滝里ダム公園があるので右折し駐車場から徒歩で数分。空知大滝の滝見台手前。

碑の設置は、2018(平成30)年11月とのこと。この空知大滝は、松浦武四郎の「石狩日誌」に紀行文とスケッチが残されており古くから知られた滝。「此辺川中へ七、八間に狭りしが、此上十弐条に併びし瀑布の何れも高二丈、三丈位幅は二尺、三尺より一丈余まで有を見たり。爰にて川巾七、八十間に広まり、其東岸千畳敷とも云平岩有て此所に止宿と定む」
松浦武四郎によると、当時の空知大滝は12条に分かれ、高さは約6〜9m、幅は狭いところで約60〜90cm、広いところで約3m余の大滝だったそうだ。武四郎一行が空知大滝東側に野宿したという。絵図と現在ではかなり様相が違うことから、上流に滝里ダム金山ダムというダムができたことと、岩盤の崩壊で高さも低くなっているのではないだろうか。
ちなみに滝里ダムの下流にあるため、ダム放流時は水量が多くなり、当時のような迫力ある大滝になるが、危険なため柵が設けられているのでそれ以上は入らないほうがいい。GW頃や大雨の後などが全面放水をするので、見応えがあると思われる。

生誕二百年、没後百三十年
松浦武四郎
空知大滝宿営の地
北海道命名百五十年記念


裏面碑文
 江戸時代末期の探検家松浦武四郎は、安政二(一八五五)年に幕府御雇となり蝦夷
地調査を命じられ、安政四(一八五七)年、四〇歳のとき、五回目となる蝦夷地探検
で空知川を遡った。丸木舟水夫兼案内人のアイヌは、トック在(新十津川)のゼッカ
ウシとトミパセ、メム在(深川)のシリアイノ、ウエンベツ在(雨竜)のタヨトイ、
アサカラ在(旭川永山)のニポンテの五人であり、彼らの協力なくして蝦夷地内陸部
の調査は実現し得なかった。
 閏五月十七日(陽暦で七月八日)この地に至るも、激流のため丸木舟での遡上をあ
きらめた一行は、滝の下流の岩盤が続く河岸に小屋を立て宿営した。松浦武四郎は、
ここを「カムイコタンと云う。またシュホロとも云うなり」、続けて「次に図する如く
の瀑布、大小七すじに成て落る。其第一大なるをはカマソウと号く。其形ち竈の如き
中に落入るが故に号るなり・・・実に天下の奇瀑と云か」と日誌に記し、滝壺でアメ
マスが飛び跳ねる様子を見て次の歌を詠んだ。
   魚の子ののぼるを見れば落つ滝も、それほどほどの位山かな
 江戸に戻った松浦武四郎は、安政六(一八五九)年に「東西蝦夷山川地理取調図」
を出版、空知川筋に「アシベツフト」「カモイコタン又はシュホロ」「ソウ」などの
地名を書き込んだ。さらに万延元(一八六〇)年に「石狩日誌」を出版、探検で見聞
した地名や自然、地形の描写に加え大滝の画も揚載した。
 明治二(一八六九)年に開拓判官となった松浦武四郎は、政府に道名、国名、郡名
を建議したが、「郡名之儀ニ付奉申上候條」において、石狩州の一郡名「空知(ソラ
チ)郡」については川筋のアイヌもその意味を知らず、太古から神が名付けたと言い
伝えられていると解説している。
 ソラチは、アイヌ語で「ソー・ラプ・チ(滝がごちゃごちゃ落ちている)」と解釈
される。岩盤のあちこちから幾筋もの滝が流れ落ちる様子を見たアイヌが「ソラプチ」
と呼ぶようになり、そこに松浦武四郎が「空知」の漢字を当てて以来、流域を指す地
名として定着した。ここ空知大滝は、空知の語源となった滝なのである。
芦別郷土研究会
個人名のため割愛
平成三十年(二〇一八)十一月吉日建立
設計・施工 大興石材産業株式会社

滝里地区は、1939(昭和14)年10月部落名変更し、滝里となる。それ以前は芦別村の一部。かつては滝ノ上と呼んだ。奔茂尻といわれた。成立時の世帯数は140戸、800人。1857(安政4)年5月松浦武四郎石狩川を遡り空知太に達する。5月さらに遡り上川盆地に至る。石狩川を下り新十津川のトップ(徳富)に宿泊する。6月空知川を遡り芦別のパンケホロナイ川合流点に宿泊する。オチヌンベ川合流点に宿泊する。6月さらに遡り空知大滝に達する。空知川を下り空知太に戻る。
 1897(明治30)年7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。1900(明治33)年6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生し、字名を「ポンモシリ」とした。1903(明治36)年富山県人の高田某と長男のが入植したが一度違う場所で居住したがその後滝里地区に入植する。その後も富山県の出身者が入植する。他にも福島・宮城等が入植するが団体入植はなかった。1905(明治38)年官設滝ノ上駅逓所(滝里)開設する。7月滝の上(後の滝里)教育所開設する。11月空知川滝の上簡易教育所と改称。1909(明治42)年3月奔茂尻の山沿い地帯の払い下げを受け村有林とする。茂尻岸馬内(芦別市,富良野市の境を流れている空知川南支流の島の下付近)に飯村外次郎が移住する。1911(明治44)年2月下富良野線鉄道は8工区に分けて着工する。
 1913(大正2)年9月部落・字名改正し、漢字表記で「奔茂尻」とする。11月滝川〜下富良野間に鉄道開通し、釧路本線と称する。(現・根室本線)下芦別、野花南、奔茂尻の各駅設置する。1914(大正3)年12月但馬・野花南・滝ノ上渡船場開設する。1915(大正4)年3月鉄道の開通に伴い滝ノ上駅逓所廃止となる。奔茂尻尋常小学校と改称する。1916(大正5)年10月奔茂尻発電所建設工事着工。1917(大正6)年浄土真宗本願寺派安照寺建立する。1919(大正8)年5月奔茂尻発電所操業開始。1921(大正10)年滝川〜根室を根室本線と改称する。1923(大正12)年4月一級町村制施行。
 1938(昭和13)年右岸に自動車道(現・国道38号)が開通する。1939(昭和14)年10月部落名変更し、「滝里」となった。1941(昭和16)年4月町制施行。1945(昭和20)年滝里地区電化となる。1946(昭和21)年奔茂尻駅を滝里駅に改称する。1953(昭和28)年4月市制施行により「芦別市」誕生する。1955(昭和30)年4月富良野芦別道立公園設立。9月字名変更し滝里町となる。成立時の世帯数は153戸、934人。1963(昭和38)年国道38号線の野花南〜滝里間のトンネル工事着工。1965(昭和40)年新野花南隧道開通する。1972(昭和47)年頃から北海道開発局石狩川開発建設部による滝里地区の予備調査が開始。1975(昭和50)年7月ダム建設適地である結果を市に報告する。これにより建設計画が表面化し、住民は反対運動を起こすも、過疎と高齢化に加え農業の不振もあり、大筋で合意する。以降は補償問題へと変わっていく。1983(昭和58)年12月に芦別市は道に対し「誠意ある総合施策」の提言を求め、「施策が明示されない限り、滝里ダム連絡協議会・滝里ダム現地連絡協議会には参加しない」、として回答を求めた。1984(昭和59)年1月国と道は調整を急ぎ芦別市に対し回答を行なった。1985(昭和60)年11月上芦別町に「ひぐらし団地」を造成。12月には「石狩川水系滝里ダム建設事業に伴う損失補償基準(案)」が示され、1986(昭和61)年1月「損失補償基準調印式」が行なわれた。7月滝里小学校の閉校式挙行。8月浄土真宗本願寺派安照寺が廃止となった。滝里小学校体育館で閉町式(解散式)挙行。
 1991(平成3)年10月野花南〜島ノ下間、滝里ダム建設にともなう線路付替を行う。滝里駅廃止となる。1992(平成4)年滝里ダムコンクリート打設開始。奔茂尻発電所閉所。1996(平成8)年滝里ダム発電所工事着工する。1999(平成11)年滝里ダム試験湛水開始。滝里ダムが完成し、滝里発電所が運転を開始する。2000(平成12)年滝里ダム資料館が開館。2011(平成23)年空知大滝甌穴群が北海道天然記念物に指定される。


1857(安政4)年、5月松浦武四郎石狩川を遡り空知太に達する。5月さらに遡り上川盆地に至る。石狩川を下り新十津川のトップ(徳富)に宿泊する。6月空知川を遡り芦別のパンケホロナイ川合流点に宿泊する。オチヌンベ川合流点に宿泊する。6月さらに遡り空知大滝に達する。空知川を下り空知太に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。
1871(明治4)年、札幌・石狩・空知各郡の原野と土地は出願した上自由に開墾すべしと通達する。5月開拓使庁を札幌に置き、函館・根室の開拓使出張所を出張開拓庁とする。
1873(明治6)年、榎本武揚等空知川を遡り川岸の露頭炭を調査する。石狩川測量を開始する。
1874(明治7)年、開拓使雇地質学者スミス・ライマンが地質と鉱物の調査で空知大炭田発見の端緒を開く。屯田兵例則を設ける。
1875(明治8)年、6月スミス・ライマンが幌内炭山調査完了する。空知川の水利と開拓見込みにつき調査。
1877(明治10)年、開拓使鉱山課数十名が空知川付近の炭質と埋蔵量を調査する。佐藤昌介ら札幌農学校の生徒たちと共に空知川を探検し芦別経由で富良野まで至る。
1882(明治15)年、開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。
1886(明治19)年、1月函館・札幌・根室の三県と北海道事業管理局を廃し、北海道庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置く。内田瀞が空知郡内の殖民地選定。空知炭田の地質鉱床調査開始。
1887(明治20)年、近文アイヌ川村酋長が芦別川支流炭山川に石炭を発見する。
1889(明治22)年、空知川支流ペンケホロナイ川、パンケホロナイ川、オチノンベに砂金採取者多数来る。村田堤、吉川泰二郎、園田実徳らが空知炭鉱を譲り受ける。
1890(明治23)年、滝川村設置する。1月滝川村戸長役場設置する。4月北炭空知採炭所設置。空知炭鉱開鉱。
1892(明治25)年、道庁地理課の山岸信介他5名が空知川沿岸の入植地調査の為芦別に入る。
1893(明治26)年、山形県人佐藤伝次郎が歌志内からパンケホロナイ(右岸・常磐)に入植、芦別開基の人となる。
1894(明治27)年、4月芦別神社の起源となる神社を創祀。石川県人沢口期一、石川・福島県人をひきいて下班渓に入地(常盤の沢口団体)。6月兜谷徳平が富山県人を率いて下班渓45番地以南に入地し次郎島と呼ぶ。10月下班渓に市立簡易教育所設置。西村栄太郎、内三次郎が札幌野幌村から水稲赤毛種を一反歩試作する。中川一介がペンケ御料地を除く全殖民地の貸下げを受け中川農場とする。下班渓神社創祀。
1895(明治28)年、2月空知川沿岸原野600区画を貸下げ。2月京都植民協会農場が上芦別に424町の貸下げ受ける。3月早川仁左衛門・根井清作が富山県人を率いて下芦別に入地。長浜善次郎下班渓において雑貨商を営む。芦別の商店の始まり。武市農場が野花南にて国有地の貸下げを受ける。下芦別に説教所(現・大心寺 芦別市北一条西1)開設する。
1896(明治29)年、2月土佐から堅田喜之助ら野花南に入植する。3月三重県人15戸、愛知県人5戸が京都植民協会農場に入地する。6月下芦別39線12号に官設駅逓設置する。下班渓〜野花南の仮道路開削する。兜谷徳平が沢水を利用して水稲を試作する。杉浦大乗が20坪余の本願寺派説教所(本誓寺 芦別市北三条東1丁目3)設置する。宮川伊之助が下芦別にて雑貨店を開業する。
1897(明治30)年、7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。赤平〜野花南間の道路開削する。空知川北岸道路開削に着手する。福住(次郎島)でパンケホロナイ炭山開鉱する。下芦別三十七線中市街北端に芦別神社を創祀。野花南の武市農場を北光社農場と変更する。
1898(明治31)年、5月本誓寺で寺子屋を始める。学校の起源。9月暴風雨にて空知川氾濫し家屋流出多く農作物にも被害出る。12月野花南に簡易教育所設置する。
1899(明治32)年、1月下芦別簡易教育所設置する。5月郵便局を置くにあたり市街地選定の運動起こる。9月芦別太に郵便局を設置する。野花南にて片岡栄作が雑貨商を営む。養蚕の飼育者32戸。
1900(明治33)年、3月辺渓部落開拓開始。6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。7月戸長役場を下芦別37線174号の民家を借り受け開庁する。11月戸長役場を新築する。上班渓に富山県人向田伊三郎が入植する。北海道炭鉱鉄道会社上班渓御料地で枕木用材を伐採、芦別林業の起源となる。盤の沢、中の沢において砂金の採掘が盛んになる。下芦別御料地の開墾始まる。
1901(明治34)年、4月上班渓御料地に石川県人の河戸寅吉他2名が移住する。芦別駅逓所を下芦別37線に移転。野花南にて造材事業開始。
1902(明治35)年、本保清吉がペンケホロナイ川(現・ペンケ川と思われる)と空知川の合流点にて回漕業興す。船着場を設置し倉庫を建設した。
1904(明治37)年、3月空知川北岸道路が班渓地内で完成する。6月芦別小学校校舎新築する。下班渓大山の沢(現・常盤町)開拓開始。
1905(明治38)年、官設滝ノ上駅逓所(滝里)開設する。野花南御料地開墾開始。
1906(明治39)年、3月新城にて教育所開設する。4月二級町村制施行する。芦別川上流三段滝付近で造材開始。9月芦別神社の社殿新築する。空知川の南富良野〜石狩川〜江別への丸太流送が最盛期となる。部落名・字名を改称する。上班渓から御料地が独立し、郷里の名を取って新城とする。鉄道院が下富良野線鉄道の実地踏査行う。北海道炭鉱鉄道会社が夕張・芦別地区の石炭調査を行う。
1907(明治40)年、旭部落で滝沢清吉らが造田し水稲の試作。班渓幌内御料地開墾開始。下芦別御料地の貸下げ受ける。芦別〜滝川間の水運が盛んになる。野花南北光社農場を解放する。
1908(明治41)年、3月頼城分教場設置。この頃鮫淵・糠南・京都・ペンケ・富田渡船(私設)があった。11月島ノ下(五楽園)にて塩類硫黄泉を発見し、渡辺辰蔵が道庁から使用許可を受ける。 木材の流送が舟運を妨げて問題となる。
1909(明治42)年、3月奔茂尻の山沿い地帯の払い下げを受け村有林とする。11月空知川沿岸鉄道期成会組織。三菱合資会社が空知・芦別・ペンケホロナイ川流域の丘陵地帯・鉄道沿線原野160平方kmの試掘権を設定する。新城小学校設置。茂尻岸馬内(芦別市,富良野市の境を流れている空知川南支流の島の下付近)に飯村外次郎が移住する。
1910(明治43)年、3月砂川付近から下富良野に至る鉄道敷設法公布。5月鉄道分岐点を砂川か滝川について比較調査が行われる。11月鉄道分岐点が滝川となる。翌年着工する。芦別で山火事発生し数日燃える。人口6202人となる。
1911(明治44)年、2月下富良野線鉄道は8工区に分けて着工する。4月下班渓・上班渓の山沿い地帯を払下げを受けて村有林とする。
1913(大正2)年、9月部落・字名改正する。10月三菱合資会社(三菱鉱業芦別鉱業所の前身)が石炭の試掘と露頭炭調査する。11月滝川〜下富良野間に鉄道開通し、釧路本線と称する。(現・根室本線)下芦別、野花南、奔茂尻の各駅設置する。
1914(大正3)年、2月三菱鉱業出炭開始する。6月芦別小学校辺渓特別教授所開設。7月合資会社芦別魚菜市場開設する。12月但馬・野花南・滝ノ上渡船場開設する。
1915(大正4)年、3月滝ノ上駅逓所廃止となる。奔茂尻尋常小学校設置する。5月三菱合資会社第一坑開坑する。6月竹原長一が旭温泉を開く。8月上芦別小学校開校する。富士製紙株式会社江別工場に送電するため野花南発電所工事着工する。
1916(大正5)年、7月三菱合資会社第二坑開坑する。8月富士製紙会社の木材搬出の為専用軌道を設置する。10月村の人口が9298人。10月奔茂尻発電所建設工事着工。
1917(大正6)年、1月頼城小学校設置する。7月三菱合資会社第三坑を開坑する。9月新城駅逓所開設。11月常盤〜新城間の道路完成。三菱合資会社が第一抗に至る分岐線を敷設し送炭開始する。新城にて横川久蔵が澱粉工場を開設する。
1918(大正7)年、5月芦別炭鉱(油谷芦別炭鉱の前身)株式会社ペンケホロナイ盤の沢において石炭採掘開始。三菱合資会社が三菱鉱業株式会社に改称する。8月野花南発電所操業開始。下芦別に電灯ともる。芦別駅逓所廃止となる。下芦別御料地を頼城に、旧御料地・中御料地を西芦別として独立する。三又の沢が上班渓から独立する。重原さとが産婆業開業する。
1919(大正8)年、5月奔茂尻発電所操業開始。久原鉱業株式会社ペンケ炭鉱を開鉱する。8月豊田炭鉱株式会社開業。
1920(大正9)年、1月下芦別駅〜野花南駅間に上芦別駅を開設。4月金井農場(奈江部落)を中富良野村に編入する。芦別炭鉱株式会社、下芦別〜盤の沢間に軽便鉄道を敷設。9月豊田炭鉱が操業を中止し斤先掘りを行う。三菱鉱業株式会社第二坑・第三坑に至る専用道路4km整備する。三井鉱山が西芦別地区の開坑計画を断念する。
1921(大正10)年、滝川〜根室を根室本線と改称する。久原鉱業は採掘中止する。
1923(大正12)年、4月一級町村制施行。6月三菱鉱業が芦別炭砿会社の専用鉄道下芦別駅から8kmを買収する。辺渓幌内鉱区の掘削開始する。部落名字名改正する。
1924(大正13)年、5月御料林で山火事。6月干ばつの為田植えが出来なかった。11月村役場庁舎を新築落成する。
1925(大正14)年、三菱鉱業が芦別炭鉱を買収経営する。
1927(昭和2)年、久原鉱業廃業する。
1928(昭和3)年、4月下芦別市街にて大火起き158戸、828人が被災する。
1931(昭和6)年、5月融雪増水により空知川が氾濫し、開村以来最大の被害となる。8月鉄道省が芦別線の実地調査。島ノ下に不動閣温泉(みゆき荘)開設。
1932(昭和7)年、7月「黄金水松」を保存木に指定する。9月三菱鉱業業界不況のため第一坑と第五坑を閉鎖する。
1933(昭和8)年、8月上芦別に藤川ベニヤ工場操業開始。9月三菱鉱業不況のため上芦別炭鉱休山。
1934(昭和9)年、帝室林野局が上芦別駅から芦別川に沿って森林鉄道31.2km敷設する。
1935(昭和10)年、8月上芦別鉱区を買収し東芦別炭鉱開鉱。原炭鉱頼城にて石炭採掘開始。
1936(昭和11)年、8月新城駅逓所廃止となる。野花南発電所付近を芦別村立公園に指定する。昭和クローム鉱業株式会社が新城においてクローム鉱の開発着手。
1937(昭和12)年、10月野花南にて滝沢ベニヤ工場操業開始。三井鉱山西芦別地区鉱業用地を買収する。採炭準備をし頼城地区の鉱業用地を買収する。明治鉱業索道運転開始する。
1938(昭和13)年、10月高根沢鉱業所(現・芦別市高根町52)開坑。朝日工業株式会社が頼城にて石炭採掘開始。北日本興業株式会社開鉱。野花南にて新芦別炭鉱、南芦別炭鉱、鈴木炭鉱、丸寿炭鉱開鉱。旭にて東和炭鉱、深田炭鉱開鉱。大昭和製紙が豊田炭鉱を買収し経営する。新城の昭和クローム鉱は閉鎖する。
1939(昭和14)年、7月三井鉱業所一抗開抗。9月三井鉱山三井芦別鉱業所設置する。10月部落名変更。山崎幸輔が東芦別炭砿株式会社(明治鉱業(株)の前身)設立する。
1940(昭和15)年、2月西芦別小学校開校する。字名・地番改正する。11月三井鉱山株式会社芦別鉱業所開鉱にともない、芦別〜西芦別間に鉄道敷設貨物列車の運行を行う。
1941(昭和16)年、4月町制施行。朝鮮人労働者を石炭採掘のため、三井芦別鉱業所・明治上芦別鉱業所に配置する。
1942(昭和17)年、5月三井芦別専用鉄道、芦別〜西芦別間に西芦別駅を設置し旅客列車の運転開始。7月高根鉱〜芦別駅間の架空索道完成する。9月高根鉱株式会社が構内専用線・石炭積込ポケット設置する。12月石炭確保挺身隊組織し、石炭産業に従事する。
1943(昭和18)年、野花南にて明田一郎・犬養源治らが空知川砂利採取事業開始。高根鉱索道運転開始。久原鉱業廃業跡地を買収し、株式会社油谷鉱業所の所有となった。
1944(昭和19)年、4月三井鉱山は頼城鉱区を買収し、二抗開抗する。11月明治鉱業、東芦別炭鉱を買収する。三菱鉱業株式会社幌内事業区の香の沢ボーリング跡から湧き出る水で塩の製造を行う。
1945(昭和20)年、10月豊岡(現・芦別市豊岡町)に帰農者による開拓開始する。12月西芦別〜頼城間に三井芦別専用線を延長し、旅客貨物の運転開始。滝里・常磐地区電化となる。
1946(昭和21)年、5月下芦別駅を芦別駅に、奔茂尻駅を滝里駅に改称する。8月三井専用線内の三井芦別駅を廃止。旅客列車を芦別駅構内に乗り入れる。金剛・黄金・新城地区電化となる。
1947(昭和22)年、3月芦別駅舎新築する。 4月油谷芦別炭鉱開抗。三菱鉱業事業再開。三井黄金抗開鉱。9月雄別炭鉱(後の三菱炭鉱株式会社)構内に石炭積込専用線設置する。丸山・旭地区電化となる。
1948(昭和23)年、5月油谷炭砿索道運転開始。9月油谷鉱業株式会社にて構内に専用線と石炭積込ポケット設置する。役場庁舎増改築する。豊岡地区電化となる。
1949(昭和24)年、1月三井芦別専用鉄道が三井鉱山芦別鉄道と改称する。国鉄と私鉄線の連絡運輸開始する。三井芦別・緑泉・頼城の各駅を設置する。7月三井芦別鉱業所黄金鉱〜芦別駅間の索道・石炭積込ポケット設置。10月高根鉱業所第二坑開鉱する。河岸地区が電化となる。上芦別〜辺渓間の三菱専用鉄道開通する。
1950(昭和25)年、協栄工業所黄金クローム鉱山でクローム・砂金を採取する。10月三井芦別鉱業所二坑に水洗選炭機完成し規模は東洋一と称される。日本鉱山株式会社が新城地区にて珪石採取事業開始する。
1951(昭和26)年、7月俳人の山口青邨の句碑を上芦別公園内に設置する。舟山金助らが砂金採取する。8月第一劇場開館する。10月芦別観光協会設立。芦別ミルクプラント完工。北菱産業株式会社設立し、石炭開発に着手する。12月北電班渓発電所建設工事着工する。
1953(昭和28)年、1月北電芦別発電所操業開始。4月市制施行により「芦別市」誕生する。8月市立病院建設着工。9月高根鉱業所原炭ポケット全焼する。10月野花南地区で芦別郷土史研究会の永田繁太郎、戸塚栄氏によって矢野等氏の耕作地内にてアースサークル発見。野花南地区河岸にて平安朝末期の刀を発見する。
1954(昭和29)年、5月野花南雄アースサークルを札幌短期大学教授河野広道氏を指導者に復元作業を行い調査も実施した。7月芦別市と赤平市の行政区画の一部変更し、高根沢地区が芦別市に、大谷沢地区を赤平市に編入する。
1955(昭和30)年、3月国有林230町歩の払下を受けて市有林として整備する。芦別映画劇場全焼する。4月富良野芦別道立公園設立。9月字名変更する。北大地質調査班が奥芦別の地下資源を調査する。10月旭公園を市立公園にする。上水道第一期工事着工する。野花南湖にニジマスを放流する。
1956(昭和31)年、3月岩切慶二が新城地区の珪石鉱業権を得て採掘する。本町農村地区で山火事発生し、1485ha・新城地区にて山火事発生し、7920ha・本町にて山火事発生し、4059ha・旭町にて山火事発生し、1485ha焼失する。6月北菱芦別炭鉱が三菱鉱業株式会社の所有する鉱区内に祖鉱区を設けて8月に北菱奥六線沢堅坑を開坑する。7月営林署の林内移民として入地した川岸部落民が自作農となる。8月芦別川上流の崕山地区にて石灰石を調査する。10月三井芦別鉱業所黄金抗で選炭機が全焼する。12月明治上芦別鉱業所にて坑内自然発火。上芦別の一部に上水道給水開始。
1957(昭和32)年、12月本町・上芦別地区に水道給水開始。上芦別営林署森林軌道撤去。
1958(昭和33)年、1月三井芦別鉱業所一坑立坑完成する。9月芦別線の現地調査実施。10月芦別美瑛線道路現地調査。
1960(昭和35)年、4月明治上芦別鉱業所が明治上芦別炭鉱と改称する。5月北菱産業株式会社上芦別抗閉鎖となる。6月三井芦別鉱業所にて二坑に立坑開削する。10月頼城地区開拓道路完成する。芦別三笠線起工式。日鉄鉱業株式会社が芦別川上流にて砂鉄鉱床調査。
1961(昭和36)年、10月三井鉄道株式会社設立する。三菱芦別鉱業所を三菱芦別炭鉱と改称する。10月岩切慶二が滑石を発見し鉱業権を取得する。上芦別営林署の森林軌道撤去。
1962(昭和37)年、1月明治鉱業坑内で自然発火がおこり、注水埋没することとなる。芦別ミルクプラントと雪印乳業株式会社が合併し芦別雪印牛乳株式会社発足する。2月芦別線の第一工区の芦別〜常磐間(三井黄金入り口)の用地を確保する。4月三井芦別鉱業所一坑と二坑の連絡坑道完成する。三井芦別鉱業所二坑の深部斜坑採炭開始。7月三井芦別鉱業所二てガス爆発8名死亡、重傷者6名。8月野花南アースサークル(現・野花南周堤墓群)、黄金水松、芦別獅子舞を市文化財に指定する。9月三菱芦別炭鉱下芦別坑閉鎖する。新日本炭鉱株式会社が芦別にて着業する。豊岡にて淡水魚養殖始まる。石狩炭田縦貫道路芦別夕張線着工する。
1963(昭和38)年、1月明治鉱業所閉山。2月北菱青木沢炭鉱閉山となる。3月芦別線の二工区常磐〜新城間の買収交渉が妥結する。11月常磐〜新城間の着工式が行われる。国道38号線の野花南〜滝里間のトンネル工事着工。
1964(昭和39)年、1月三菱芦別鉱にて落盤事故発生し、5名が生き埋めとなり2名死亡。2月三菱鉱業所閉山。3月三菱鉱業芦別鉱業所閉山すると伴い鉱区を譲り受け、北菱芦別炭鉱本坑と改称する。7月産炭地企業北林加工操業開始する。産炭地企業新芦別(株)操業開始する。中国人殉難者の慰霊碑を建立する。8月産炭地企業興和産業(株)操業開始する。9月三菱芦別炭鉱の閉山に伴い鉄道も廃止された。10月西芦別市街地にて大火33戸焼失する。11月三井芦別総合立坑完成する。芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事着工する。
1965(昭和40)年、3月油谷炭鉱閉山。新野花南隧道開通する。4月北海道興産株式会社北興芦別炭鉱が開鉱するが、1969(昭和44)年には閉山した。11月野花南天狗の沢に電気点く。12月ロッジとリフトを新設し、国設芦別スキー場開設する。
1966(昭和41)年、6月三井芦別発電所運転開始。9月芦別〜三笠間の産業開発道路工事着工する。国設芦別スキー場の管理を芦別振興公社に委託する。パンケ山に展望台完成する。
1967(昭和42)年、2月第1回冬まつり開催。3月芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事完工する。高根炭鉱にて出水事故起き2名死亡する。5月高根鉱業所閉山。第三工区の新城〜新城峠間の路盤工事を開始。8月班渓神社改築する。9月高根小中学校廃校となる。11月三井芦別鉱にてガス爆発発生し、3名死亡する。
1968(昭和43)年、2月第四工区である新城峠以北の用地買収を一部で開始する。3月市役所新庁舎の建設に着手。4月旭ヶ丘公園の造成に着手。8月大舟鉱山芦別鉱業所閉鎖。9月平岸炭鉱平岸鉱業所閉山。11月常磐町に開拓記念碑を建立する。
1969(昭和44)年、2月市役所新庁舎に移転する。3月第三工区までの路盤他の工事完成する。工事は芦別〜新城までの路盤工事がほぼ完成し、新城〜納内間の用地も一部が確保されていたが、旭川市内の農家の反対や石炭需要の低下と、沿線予定地の炭鉱が閉山したため計画は、1972(昭和47)年7月予算配分が無くなり工事が凍結。頓挫した。4月芦別駅前商店街にて火災発生し13戸焼失する。北海道興産(株)北興芦別炭鉱閉山。8月市役所新庁舎落成する。富士電業(株)芦別工場操業開始。旭ヶ丘公園に動物が入る。11種30点。10月芦別卸売市場が本町に新築移転する。
1970(昭和45)年、1月産炭地企業北日本精機(株)が操業開始。6月細谷徹之助の歌碑を建立。佐藤晴生句碑建立する。三井芦別鉱でガス爆発、4名死亡、8名重傷。7月芦別レジャーランド開業する。芦別市民祭り開催。旭ヶ丘公園開園する。パンケ山展望台遊歩道完成する。8月誘致企業ホクト産業(株)操業開始。10月野花南ダム起工式挙行。11月北菱芦別炭鉱は閉山となる。12月三角山スキー場開設。新城地区に簡易水道完成する。
1971(昭和46)年、9月三井鉱山(株)黄金坑を分離し、新北振炭鉱に引き継ぐ。10月西村一平歌碑を旭ヶ丘公園内に建立する。10月北電新野花南発電所完成し運転開始。
1972(昭和47)年、4月芦別鉱業(株)坑内部門閉抗となる。新北振炭鉱黄金坑にて坑内火災発生する。5月新北振炭鉱(株)閉山となる。8月ペンケホロナイ川にて砂金採取する。10月健民センター芦別温泉開設。芦別映画劇場閉館となる。油谷地区に簡易水道完成する。
1973(昭和48)年、3月芦別温泉が「国民保養温泉」に指定。10月三井鉱山石炭部門を分離して三井石炭鉱業(株)を設立する。
1978(昭和53)年、農業用「野花南ダム」完成。
1981(昭和56)年、市立図書館完成する。
1984(昭和59)年、「星の降る里・芦別」宣言。
1986(昭和61)年、星の降る里・シンボルタワー完成。
1987(昭和62)年、芦別温泉ヘルスセンター星遊館完成。
1988(昭和63)年、「株式会社星の降る里芦別」創立する。芦別レジャーランドが「竃kの京芦別」に社名変更する。
1989(平成元)年、北海道大観音建立。芦別温泉スターライトホテル完成。三井芦別鉄道廃止。
1990(平成2)年、黄金水松が新・日本名木百選に選定される。カナディアンワールドがオープン。
1991(平成3)年、10月野花南〜島ノ下間、滝里ダム建設にともなう線路付替を行う。滝里駅廃止となる。
1992(平成4)年、芦別温泉が新築移転。滝里ダムコンクリート打設開始。三井芦別鉱業所閉山。奔茂尻発電所閉所。
1993(平成5)年、ホテル三十三間堂オープン。4月スタープラザ芦別が「道の駅」認定される。9月星の降る里百年記念館オープン。開基100周年記念式典挙行。
1996(平成8)年、旭ヶ丘公園整備完工。滝里ダム発電所工事着工する。頼城中学校閉校し、西芦別中学校に統合となる。
1997(平成9)年、10月カナディアンワールド閉園。
1999(平成11)年、滝里ダム試験湛水開始。カナディアンワールドが市営公園として開園。滝里ダムが完成し、滝里発電所が運転を開始する。星槎国際高等学校開校する。崕山に入山規制。
2000(平成12)年、野花南周堤墓群と滝里遺跡の遺物が道文化財に指定される。旧干場家れんが倉庫と新城仙台山の三本ナラを市指定文化財に指定する。滝里ダム資料館が開館。
2002(平成14)年、黄金水松が北海道指定文化財天然記念物に指定される。頼城小学校が閉校し、西芦別小学校に統合する。
2004(平成16)年、星槎大学が開学する。
2007(平成19)年、1月有限会社ランド(本社・芦別市)へ売却され、同年6月運営会社である「株式会社北の京芦別」は経営不振のために会社解散を決議。
2008(平成20)年、4月に特別清算を開始。「北の京芦別」の名称もそのままに営業を継続し、同年11月まで「有限会社 ランド」が営業。その後「株式会社アイカム」が継続して営業を行う。星槎大学(旧頼城小学校)校舎及び体育館が国の登録有形文化財(建造物)に登録される。
2009(平成21)年、旧三井鉄道炭山川橋梁が国の登録有形文化財に登録される。
2011(平成23)年、10月「株式会社アイカム」が撤退、所有権は福島県二本松市の豊島硝子に移り、委託を受けた経営コンサルタントのもと事業規模を大幅に縮小し営業を継続した。空知大滝甌穴群が北海道天然記念物に指定される。
2012(平成24)年、8月奈良県の「アコンプ」(本社・大和郡山市)に所有者が変わり、「ライフステージホテル天都」と改称、北海道観音も引き継がれた。
2013(平成25)年8月末をもってアコンプ社のホテル事業撤退に伴い北の京芦別は閉鎖となった。常磐小学校が閉校し、芦別小学校に統合。野花南・西芦別小学校が閉校し、上芦別小学校に統合となる。
2017(平成29)年、上芦別・頼城町に大規模太陽光発電所が完成する。
 2020(令和2)年、カナディアンワールド公園は振興会のみでの運営となり名称も「カナディアンワールド」に変更。
芦別市史、新芦別市史参考

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