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芦別ダム

住所 芦別市常磐494 

芦別ダム(ダム便覧)

芦別市

芦別市の由来は、市域南端から中部にかけて南北に貫流する芦別川に由来し、「芦別」とはアイヌ語で、「アシュ・ペツ」(切り立つ・河)に由来する。
常磐の由来は、部落平和にして常盤木(常緑樹や常緑多年草など、年間を通して枯れない植物を指す)の如く。
国道38号線道道4号旭川芦別線の交差点から旭川方向に約750mを鋭角に右折、約550mほど。

芦別ダムも野花南ダム同様同名のダムがあり、空知川に建設された重力式コンクリートダムである。もう一つは、石狩川水系芦別川に建設された重力式コンクリートダムである。
1918(大正7)年8月芦別を流れる空知川に野花南ダムが建設された。
1919(大正8)年5月には奔茂尻(ぽんもしり)発電所が建設され、ひきつづき「芦別発電所」が計画された。
しかし、1920(大正9)年4月答申案が出され、これに伴い工事用地、湛水敷地となる民有地の買収なども行い仮建物も建てたが、炭鉱地帯への補償、水利権などの問題が難航し実現しなかった。
以来、北海道電灯、大日本電力、日本発電、北海道電力と事業形態の推移のまま継承されてきた。
その後、芦別発電所計画はその立地の良さと工期の比較的短期間で完成する見込みもあり、北海道電源開発計画有望地の上位に上げられ、1942(昭和17)年日本発送電に「班渓発電所」の建設準備命令が下付され、準備調査設計が行われた。
湛水敷地の測量、三井、三菱、明治、空知芦別、北日本などの炭鉱の補償問題調査、ダム地点の地質調査、現場付近に臨時測水所の開設などが行われた。
終戦後、緊急施設として電源開発(電力拡充)の5ヵ年計画書を提出し推進され、1951(昭和26)年10月「対日援助物資見返資金」の融資決定を受けて、11月に建設所が開設され、12月に工事が着工した。
この工事では、1952(昭和27)年3月に飛島組の人夫が高さ20mの崖の崩落により生き埋めとなり、死者3名、重傷者6名、軽傷者10名をだす大惨事が起きている。
1953(昭和28)年1月わずか一年ほどでダムは完成し、貯水を開始する。同月試運転を行い7000kWの発電を行う。
形式 ローラーゲート4門の重力式コンクリートダム。管理は北海道電力(株)。
発電方式 堰堤水路式。使用河川は空知川。取水口は常磐494番地。高さ16.5m。堤頂長90.8m。流域面積2173平方km。湛水面積116ha。総貯水容量625万立方m。有効貯水容量140万立方m。湛水面積115万6000平方m。
取水口から水槽に導水し、落差約14mを利用して使用水量84m3/s、最大1万kWを発電後、空知川に放流される。
1954(昭和29)年、班渓発電所から芦別発電所と改称する。


常磐は、1939(昭和14)年10月部落名変更し「常磐」となる。常盤とも書いた。元は芦別村の一部で、下班渓と呼ばれていた。成立時の世帯数は35戸、200人。1893(明治26)年3月歌志内で魚屋をしていた、山形県人佐藤伝治郎が歌志内から山越えをしてパンケホロナイ(右岸・常磐)に単独入植、芦別開基の人となる。1894(明治27)年4月石川県人沢口期一が、石川・福島県人をひきいて下班渓に入地(常盤の沢口団体)。6月兜谷徳平が富山県人を率いて下班渓45番地以南に入地し次郎島と呼ぶ。10月下班渓に市立簡易教育所設置。下班渓神社創祀。開拓が本格化していく。入植と同時に、お寺と学校をどうするかという話が持ち上がる。入植の際、一夜の宿を借りた歌志内安楽寺(現・歌志内市字本町124)に相河了瑞師が居たこともあり、この干場友次氏所有のレンガ倉庫の近くに、道庁より未払い下げ地1町歩を借り受け、歌志内の安楽寺が斑渓説教所兼教育所(光明寺の前身)を開設した。1895(明治28)年長浜善次郎下班渓において雑貨商を営む。芦別の商店の始まり。1896(明治29)年下班渓〜野花南の仮道路開削する。兜谷徳平が沢水を利用して水稲を試作する。私立斑渓簡易教育所開所、校舎新築となる。1897(明治30)年7月滝川村と奈江村を分割し歌志内村を設置、歌志内村字芦別となる。福住(次郎島)でパンケホロナイ炭山開鉱する。辺渓(現・旭町)に入植する。1899(明治32)年公立斑渓簡易教育所に改称。1900(明治33)年6月歌志内村より分村「芦別村」が誕生する。7月戸長役場を下芦別37線174号の民家を借り受け開庁する。11月戸長役場を新築する。上班渓(現・黄金町)に富山県人向田伊三郎が入植する。1901(明治34)年上斑渓御料地(現・新城)に入植者が入る。1904(明治37)年下班渓大山の沢(現・常盤町)開拓開始。9月班渓神社改築する。1906(明治39)年4月二級町村制施行する。この時常盤は「第一部落下班渓」となる。福住は「次郎島」「小百戸」となる。部落名・字名を改称する。1907(明治40)年班渓幌内御料地(現・常磐の一部)開墾開始。11月斑渓尋常小学校が認可され、後の常磐小学校のある場所に校舎移転。校地は1500坪、吉田外次郎氏の寄付により、校舎は教室3、事務室、宿直室の延べ123.5坪、建築費は三千余円。村費からの援助は一切なかった。1910(明治43)年三又の沢(現・豊岡)に入植開始。
 1913(大正2)年、9月部落・字名改正する。常盤は「字下班渓」、福住は「下班渓のうち次郎島」。1917(大正6)年11月常盤〜新城間の道路完成。1919(大正8)年佐藤伝次郎が大山の沢にてダムを造るが失敗する。1921(大正10)年佐藤伝次郎他5名で用水組合を設立し、パンケホロナイ川に堰堤を設ける。この頃防虫菊の栽培が盛んになる。1923(大正12)年4月一級町村制施行。常盤は字下班渓となる。1924(大正13)年9月班渓開拓30周年記念碑建立する。1925(大正14)年干場伊五郎氏が班渓神社に神鏡を奉納する。
 1939(昭和14)年10月部落名変更し、常磐となる。1943(昭和18)年班渓神社境内内に開拓50周年記念碑建立する。1945(昭和20)年常磐地区電化となる。1946(昭和21)年常磐900番地道有林に16戸入植する。1947(昭和22)年5月班渓中学校併置する。1950(昭和25)年常盤の世帯数は276戸、1712人。1951(昭和26)年12月北電班渓発電所建設工事着工する。1952(昭和27)年常磐小中学校と改称する。班渓神社大改修する。1953(昭和28)年1月北電芦別発電所操業開始。4月市制施行により「芦別市」誕生する。6月芦別発祥の地に記念標識建立する。1955(昭和30)年9月字名変更し、一部が常磐町・黄金町となる。世帯数は286戸、1882人。1958(昭和33)年9月芦別線の現地調査実施。1962(昭和37)年2月芦別線の第一工区の芦別〜常磐間(三井黄金入り口)の用地を確保する。1963(昭和38)年3月芦別線の二工区常磐〜新城間の買収交渉が妥結する。11月常磐〜新城間の着工式が行われる。1964(昭和39)年芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事着工する。1967(昭和42)年3月芦別線の第一工区と第二工区の路盤工事完工する。第三工区の新城〜新城峠間の路盤工事を開始。8月班渓神社改築する。1968(昭和43)年2月第四工区である新城峠以北の用地買収を一部で開始する。11月常磐町に開拓記念碑を建立する。1969(昭和44)年3月第三工区までの路盤他の工事完成する。芦別線の工事は芦別〜新城までの路盤工事がほぼ完成し、新城〜納内間の用地も一部が確保されていたが、旭川市内の農家の反対や石炭需要の低下と、沿線予定地の炭鉱が閉山したため計画は、1972(昭和47)年7月予算配分が無くなり工事が凍結。頓挫した。1988(昭和63)年常磐中学校閉校となる。
 1991(平成3)年班渓神社内装を改修する。1993(平成5)年8月班渓神社創立100年式典挙行。9月常磐開基100年式典挙行。芦別市開基100周年記念式典挙行。2000(平成12)年旧干場家れんが倉庫と新城仙台山の三本ナラを市指定文化財に指定する。2013(平成25)年常磐小学校が閉校し、芦別小学校に統合。


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