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松浦武四郎紀行足跡之碑

住所 夕張郡長沼町東10線南7番地(マオイの丘公園内)

長沼町

長沼町観光協会

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国道274号線(樹海ロード)と国道337号線の交点に位置し、1997(平成9)年4月にオープンした道の駅 マオイの丘公園内にある碑。
碑には、大銅神鏡・鍋・夕張日誌表紙・経路図・碑文などが収められている。
大銅神鏡とは、早逝した長女を追悼して、1875(明治8)年に東京上野東照宮に奉納した物を模したもの、鍋は旅路にあって分身の如く携帯した鍋の意を汲んで碑中に収めたものだそうだ。
松浦武四郎がこの地を通ったのは1857(安政4)年、夕張のアイヌ4人を雇い石狩を舟で出発。石狩川をのぼって夕張川に入る。
『夕張』とは、石狩の東側を広い意味で夕張と使われており、長沼・栗山・千歳・夕張・穂別、このあたり全体を指しているそうだ。
旧オサツ沼、マオイ沼を船行しヤムワッカヒラ(幌内)で上陸、この道を通って、7月10に馬追丘陵をユウニ(由仁町)方面に越えている。
更に夕張川をのぼり滝ノ下で宿泊、滝ノ上の於兎牛で宿泊、滝の上(カムイコタン)を過ぎてマツクツナイで宿泊その帰路にヤムワッカヒラ(幌内)で宿営、その後千歳会所に戻っている。
この碑は、1996(平成8)年7月に建立されたもの。


配田内 秋葉神社史蹟
石碑には、1891(明治24)年、青森県人中野軍助が先住民と共に山野で狩り、畑を拓し水田を開発すると書いてありますが、長沼町の歴史では若干年号が違います。
長沼町教育委員会に問い合わせたところ、1888(明治21)年、青森県人中野軍助、東九線南七号に居住し、アイヌたちと狩猟を行うと共に、山間の渓流を利用して水田をつくり、初年度は3反歩で籾2俵を得た。(長沼町稲作のはじまり)
となり石碑の年号の1891(明治24)年は、1888(明治21)年の表記になるそうだ(長沼村史は訂正されている表記がある)。
1887(明治20)年、長沼町開基、第一鍬者は、吉川鉄之助及び渡辺伝二は千歳、三川、由仁を経由して馬追原野の夕張河畔に入った。
当時この辺りは、幌内と呼ばれていて、配田内は丘から下方に行った平らな場所だったそうで、1994(平成6)年刊行の風雪100年ほろない史に載っているそうだ。
碑文にある秋葉神社とは、たぶん秋葉山神社 青森県八戸市白銀町大沢片平6−14のことだと思います(ここから分祀(ぶんし)されたかも)。
元々は違う場所にあった碑を公園内に移築したものと私は考えております。(あくまでも推測です)


松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

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