蝦夷地開拓移住隊士の墓住所 苫小牧市字勇払132番地 勇払開拓史跡公園内苫小牧市 社団法人 苫小牧観光協会 開拓使三角測量勇払基点 関連記事 勇武津資料館 苫小牧発祥の地でもある勇払に、1973(昭和48)年に史跡公園ができた。 この史跡公園には、八王子千人同心を始め当時の勇払に関わりのあった人々の墓碑が、市指定文化財史跡「蝦夷地開拓移住隊士の墓」として大切に保護されている。 八王子千人同心の原半左衛門は、蝦夷地の交易が幕府の直轄となっており、1799(寛政11)年、ロシア船が蝦夷地(北海道)にたびたび接近して脅威に感じていたため、北方の警備と開拓のため八王子同心の移住を願いでた。 1800(寛政12)年、1月幕府に承認され、同年3月20日に弟・原新介が千人同心の子弟43名で出発。 翌日に原半左衛門が57名をつれて八王子から蝦夷地(北海道)に出発した。 同年、4月には半左衛門に率いられ50人が白糠(しらぬか)に、弟の新介は勇武津(苫小牧市勇払)に入植する。 両隊は自給自足で、警備・開拓・交易・道路建設などに従事した。 1801(寛政13)年、2月に先発隊の補充として30名が八王子から蝦夷地(北海道)に向かう。 これが北海道開拓の第一歩となったが、自給自足の農業もままならず、飢えと極寒の苛酷な環境で開拓は難航した。 1804(文化元)年までに、白糠と勇武津に合わせて130人が移り住んだが、このうち33人が蝦夷地で犠牲となり、1802(享和2)年までに大半の人が死んだとされている。 結果、入植4年目に開拓を断念し、解散となった。 このことが、蝦夷地(北海道)開拓の先駆けとなり、明治に入り屯田兵による本格的な北海道開拓となっていくのである。 1973(昭和48)年、苫小牧市と八王子市は姉妹都市となり、2000(平成12)年には勇払原野の開拓200周年を記念し、苫小牧市で八王子千人同心慰霊祭が行われた。 ちなみに、八王子千人同心とは、1590(天正18)年八王子城が落城すると、徳川幕府は甲府との境にあった八王子を、甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点と考え、甲斐武田氏の家臣だった小人頭とその配下を、八王子城下の治安維持と甲州道の警備のため、配置したのが八王子千人同心の始まりとされる。 身分は武士、通常は百姓として耕作に従事、このように兵農分離の元、半士半農(士族身分と農民身分を併せ持つ)でもあり、きわめて稀な団体的農兵だった。 1組を100名、10組に編成し1000名となり、10名の隊長(千人頭)がいた。 大きな地図で見る |