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日高町発祥之地碑

住所 沙流郡日高町字千栄

日高町

沙流の由来は、沙流川流域に「サル・ウン・クル」(葦原・住む・人々)アイヌ民族の中心地があったことから。1869(明治2)年8月北海道で国郡里制が施行され、日高国と沙流郡が設置され、開拓使が管轄。「サル」がそのまま使われるようになったと言われている。他にも「サロペッ」(茅が多く茂る川)、「シャル」(湿沢)に由来する説もあるというが定かではない。 沙流川の由来は、「シシリムカ」(砂が多く河口がふさがって高台になっている)が原名であるが、アイヌ語の「サラ」(葦原)に由来する。
日高町の由来は日高山脈の山麓に位置することから命名されたといわれ、1919(大正8)年、4月沙流郡幌去村(現・平取町)から分村、右左府(うさっぷ)となる。旧村名である右左府(うさっぷ)は、アイヌ語で「ウ・シャップ」(互いに・流れ出る)の意で、パンケウシャップ川とペンケウシャップ川が並んで流れていたからであろう。当初は「宇社布」と呼ばれていたが、その後「右左府」に改めた。1943(昭和18)年、右左府村が日高村に改称し、村内の地名(字名)、右左府(うさっぷ)を日高に、岡春部(おかしゅんべ)を富岡に、三菜頃(さんなころ)・岩内を三岩に、千呂露(ちろろ)を千栄(ちさか)に改称している。
千栄(ちさか)の由来は、千呂露「チロロ」(人が踏みかためた道)とも言われているが定説はないようである。(鳥の所)とも言うのだそうだが、日高村五拾年史では人が踏みかためた道とあるのでそちらを優先したい。
国道274号線沿いにあり、道道847号三岩日高線との交差点から清水町方向に約6.5kmほど左手。

1904(明治37)年、日露戦争の開戦で軍部が銃床に使用するクルミ材を大量に必要としていた。当時クルミの良木が茂る右左府(ウサップ、現・日高町)や千呂露(チロロ)に多くの山師や樵(キコリ)が入ってきたがそれらの入地方法は金山〜占冠〜ペンケウシャップ経由だったと言われている。同年、金野源八郎が右左府村域への殖民勧誘を行う(クルミの木を世話したのが彼だと言われている)。奥州気仙郡(現・岩手県気仙郡)の出身で村長を務めたが、単身で渡道する。その後荷菜の工藤悌三の所に住み、西忠義支庁長と出会い、その後岩知志(現・平取町)以北の入植勧誘(自費にて)に精を出す。
金野源八郎の勧誘により、岩手県出身の目曲久助は右左府の地に入りクルミの伐採を行った。
その後、金野源八郎は他人名義の土地にあるクルミの木を無断で売却したり、他人名義の土地を無断で転売するなどし、右左府に居られなくなり旭川に行くが旭橋のたもとで死んでいるのが発見され、右左府移住団の一員でもある風間源作がねんごろに葬ったという。

1905(明治38)年9月に戦争が終結すると軍需物資の生産も終わり、クルミ伐採に従事していた人たちが撤退していく中、9月栗沢村の目曲久助がこの地が農業・牧畜に適していると判断して千呂露原野に入植し、発祥碑のある千呂露原野基線158番地に居を構え、和人定住の祖となった(このとき金野源八郎が説得にあたったようである)。1908(明治41)年、勢藤潤作が千呂露原野に入植する。その後 入植者が増加して右左府・千呂露原野は開拓されていった。
1910(明治43)年、5月金山〜占冠間の道路開通する。右左府・千呂露駅逓所設置されるが、千呂露駅逓所は建築の都合で12月までずれたようである。料金は一泊60銭、昼食20銭、乗馬・駄馬は12銭と浦河支庁管内で最も高額だった。6月千呂露渡船場開場、取扱人は大谷幸輔。この頃勢藤潤作が千呂露にて雑貨商を始め市街発祥となる。9月部落民がお金を出しあい千呂露神社の前身である小社宇と地鎮社をを建立する。場所は千栄小学校から上手の堤防地帯。
駅逓所の駅舎は、客室八畳ニ間と六畳ニ間、管理人室、土間付きの台所だった。当時の千呂露には掘立小屋の民家が数軒ある程度の集落だったこともあり目立った存在だったろう。支給された官馬は3頭、他に私馬も数頭予備するようになった。
1923(大正12)年、6月右左府(日高)〜占冠〜金山駅までの横断バス開通する。
1927(昭和2)年、片岡次郎の経営により三国横断バスが運行され、民間の輸送など運輸業などが増えるようになったこともあり、駅逓所の存続の意味も薄れていった。
1934(昭和9)年に右左府駅逓所の初代取扱人である広瀬源太郎が亡くなり、12月息子の徳太郎が二代目取扱人の辞令を道庁より受けた。この頃の一ヶ月の利用客は平均14〜15人程度だった。
1937(昭和12)年、右左府駅逓所廃止となる。徳太郎は廃止となった施設一切を無償で付与された。
千呂露駅逓所は、年代は不明だが、初代取扱人伊藤弁太郎に代わり、大谷幸輔が二代目となるも、まもなく道垣内菊右衛門に代わる。その後道垣内慶太郎、1918(大正7)年に道垣内健太郎と代わり、1939(昭和14)年、千呂露駅逓所廃止となる。
1921(大正10)年、この頃人口が増えて神社の移転問題が湧き上がり、日高町千栄の現在地近くに千呂露神社の名称で新築移転した。1960(昭和35)年、日勝道路建設予定地となり、約20mほど離れた現在地に移動した。

開拓期の千呂露は道路網でも大変苦労したようである。右左府などへ行き来する道路は、ルヨイ(通称岩石道)と呼ばれる難所があり狭い笹分け道しかなかった。1881(明治14)年、10月札幌県吏内田瀞、田口捨六が道路調査のため右左府(現・日高町)を通り十勝にでた「巡回複名書」には「岩内川ヨリ五里半ニシテルヨイアリ」と書かれており、「ルヨイハ化石ヲ含有スル長サ凡ソ三〇〇尺ナルクレイストン(泥岩)、及ビサントストン(砂石)アリテ水面ニ近ク突出セリ」と記されている。この部分は陸路を取れず渡船に頼るしかなかったようだが、川は急流でかなりの難所だった。増水時は長期に渡り途絶し、千呂露部落は長期間の孤立を余儀なくされることもしばしばあり、1912(大正元)年には伍長伊東仙之助、岩本玉吉などが中心となり岩石道の開削をすることとなり、資金を集め部落民などと共に開削、1913(大正2)年には道筋を付け終わるが、1916(大正5)年の融雪時に橋が流出して交通が途絶し、伊東仙之助が室蘭土木所長に嘆願書を提出した。
開拓時代はかなり苦労し、人の出入りも多かったようだが現在はすぐそばに日高分屯地があり、人家はまばらである。
開拓公園内には、1966(昭和41)年10月建立された日高町発祥之地碑と、2005(平成17)年10月に建立された開拓百年記念碑がある。

碑文
 明治三十八年九月、岩手県
人目曲久助氏がこの地に居を
構え、日高町開拓の基礎をき
ずいた。爾来、春風秋雨六十
余年、往時の苦難を偲び、町
民相計りこの碑を建立する。
昭和四十一年十月
日高町長 占部久重


1644(正保元)年、幕府が松前藩の領地図を基に、北方領土を含む「正保御国絵図」を作成。
1669(寛文9)年、沙流場所は松前藩士小林甚五兵衛の知行地とされていた。
1720(享保5)年、沙流場所は、藩士小林隼太の知行地で運上屋が置かれ、佐藤太次兵衛が請負った。
1785(天明5)年、最上徳内が、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。沙流場所は藩士小林隼吉の支配地として、一ヵ年45両で松前の阿部伝吉が請負う。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。
1858(安政5)年、松浦武四郎が沙流川上流を探査する。
1869(明治2)年、8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し、漁場持と改称。日高国となる。11月沙流郡は仙台・彦根ニ藩の支配地となる。
1871(明治4)年、諸藩分領が廃止され、開拓使に帰属される。沙流郡は開拓使本庁の直轄となる。
1872(明治5)年、浦河支庁沙流出張所が設置される。2月開拓使役人の一ノ瀬朝春が岩知志(現・平取町)より右左府(現・日高町)を経て里標を建てながら占冠に至る。
1879(明治12)年、沙流郡役所が設置され、苫小牧所在勇払外五郡役所の管轄下となる。
1880(明治13)年、沙流戸長役場を佐瑠太(現・日高町富川)に設置する。
1881(明治14)年、10月札幌県吏内田瀞、田口捨六が道路調査のため右左府(現・日高町)を通り十勝にでる。
1882(明治15)年、2月開拓使を廃し函館・札幌・根室の3県を置く。日高七郡は札幌県に属する。
1886(明治19)年、1月北海道庁を設置。
1887(明治20)年、浦河外六郡役所設置され、日高七郡を包轄する。
1889(明治22)年、戸長役場が門別に移され、門別外一七ヵ村戸長役場を開庁し、沙流郡一円を総轄する。
1891(明治24)年、夕張金山(紅葉山付近)砂金採取で賑わう。砂金採取人が日高山脈を越えて南富良野町金山に入地し芽屋に住む。
1899(明治32)年、9月平取外八ヵ村戸長役場開庁する。
1901(明治34)年、右左府原野の殖民区画測設される。
1902(明治35)年、日高国に二級町村制施行し、浦河・萩伏(現・浦河町)に実施する。 千呂露(ちろろ)原野に殖民区画増設される。
1903(明治36)年、くるみ材伐採の為杣夫らが村域に入地する。
1904(明治37)年、金野源八郎が右左府村域への殖民勧誘を行う。
1905(明治38)年、8月小島貞三を団長とする視察団が右左府原野を視察する。9月栗沢村の目曲久助が千呂露原野に入植し、和人定住の祖となる。
1907(明治40)年、2月風間源作ら五名が右左府原野に入地し、草分けとなる。
1909(明治42)年、右左府に郵便集配所設置する。5月岡春部(現・日高町富岡)に宮城県人鹿野長三郎が萩伏(現・浦河町)から移住し開拓の祖となる。8月禅僧の定賢が右左府に入地し寺院を建立する。9月右左府教育所校舎ができ、12月に開校する。
1910(明治43)年、5月金山〜占冠間の道路開通する。右左府・千呂露駅逓所設置される。6月千呂露渡船場開場。11月梶浦多平が早来より三菜頃(現・日高町三岩)に入植する。志賀三四郎が西一線銀沢にて砂金採取をする。この頃勢藤潤作が千呂露にて雑貨商を始め市街発祥となる。
1913(大正2)年、12月三菜頃〜右左府間の道路開通する。 幌去村(現・平取町)〜右左府間拓植道路完成する。
1914(大正3)年、4月幌内沢でクローム鉱脈を発見する。7月幌内沢で栗栖清之助と矢野豊吉が30貫余りの銅塊発見する。
1917(大正6)年、2月千呂露にて釜石鉱山試掘開始する。
1919(大正8)年、4月沙流郡幌去村(現・平取町)から分村、右左府(うさっぷ)村戸長役場設置する。
1923(大正12)年、4月二級町村制施行。6月右左府(日高)〜占冠〜金山駅までの横断バス開通。
1932(昭和7)年、8月浦河支庁を日高支庁と改称する。津田権栄が乳牛を導入し搾乳を試みる。
1937(昭和12)年、右左府駅逓所廃止となる。
1939(昭和14)年、千呂露駅逓所廃止となる。
1943(昭和18)年、右左府村が日高村に改称し、村内の地名(字名)、右左府(うさっぷ)を日高に、岡春部(おかしゅんべ)を富岡に、三菜頃(さんなころ)・岩内を三岩に、千呂露(ちろろ)を千栄に改称する。
1956(昭和31)年、7月開基50周年記念式典挙行。
1958(昭和33)年、8月岩知志ダム完成し、湛水開始する。右左府発電所着工する。
1959(昭和34)年、国鉄富内線振内〜日高間着工する。
1962(昭和37)年、11月町制施行し日高町となる。
1964(昭和39)年、11月振内〜日高町間を延伸開業し富内線全通。仁世宇駅・岩知志駅・日高岩内駅・日高三岡駅・日高町駅を新設する。
1965(昭和40)年、日勝道路が全線開通する。
1969(昭和44)年、日勝道路・町(村)道日高夕張線が国道274号線となる。
1972(昭和47)年、日高国際スキー場オープンする。駅前公園完成。
1973(昭和48)年、沙流川温泉開発に着手。
1974(昭和49)年、郷土資料館設置する。
1986(昭和61)年、11月富内線全線廃止し、道南バスに転換する。
1991(平成3)年、日高〜穂別間の全区間開通する。
2006(平成18)年、3月沙流郡門別町と合併し、改めて日高町が発足する。町の面積の半分以上が飛地となっている。ちなみに新ひだか町とは関係ない。
2010(平成22)年、4月日高支庁が廃止され、日高振興局の管轄となる。
日高村五拾年史・日高町史参考

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